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建築家本間乙彦の仕事③-地域のお宝さがし-115

今回からは、本間の在阪時代の経歴(仕事)などをみていきます。

■くろふね図案店を経営するが・・■(大正9年[1920]~12年)
 まず、本間の在阪時代の「公式の略歴」(第113回表1)を掲げます。

●来阪時期とくろふね図案店●
 渋谷五郎は、本間が、「昨年九月の大震災に遇つて、今大阪に来て居て・・自分で図案して自分で刺繍した紙入を同窓知誼に買つてもらひたいとまわつて居る」という話を、西村辰次郎から聞いています(注1)。この話の前半から本間の来阪時期(大正12年9月以降)、後半から長堀橋に開業した「黒船図案店」(注2、以下、図案店)の経営状況が窺えます。

 本間の近況を聞いた渋谷が、西村に勤務校(都島工業学校、以下、都工)で教員が不足していることを話すと、「非常に技術がよいから結構だが、先生としての[ガツチリ]さが欠けているだろうから、遇つて話し合うて見たまへ」とのアドバイスをもらい、本間に面会してみると、「冬の最中であるのにヨレヨレの夏服を着て居た」ので(前掲注1)、学生時代のオシャレな本間を知っている渋谷は驚いたようです。渋谷が面会した時期は、本間の着任時期(大正13年3月、注3)から、大正13年2月頃と推測されます。

 一方、鶴丸梅太郎は、本間とは、「黒船図案所を経営して明快な画期的な図案を世に送り出していた頃」(注4)に出会ったようですが、その時期は、本間の来阪時期と、都工着任時期から、大正12年末から同13年3月までと考えられます。その場所は、鶴丸らの洋画グループが、談論風発の時間を過ごす際に本間も参加した、道頓堀の「パノン」(後出)と思われます。

注1)西村は東京高工の本間の先輩(第113回表2)。この話は、渋谷が「本           間乙彦君を偲びて」(『建築と社会』1937年9月号)で紹介している。           なお、西村は、大正12年あめりか屋大阪店主となる(内田青蔵『あめ             りか屋商品住宅』、すまいの図書館出版局、1987年)。
注2)関根要太郎の回想。第114回参照。
注3)『創立100周年記念都工のあゆみ』(2007年)
注4)鶴丸梅太郎の回想(第113回表2参照)。鶴丸は、明治16年(1883)               生。大正12年、ステンドグラス・モザイクの「ベニス工房」設立(橋             爪節也編『モダン道頓堀探検』p109、創元社、2005年)。『上方』や         『建築と社会』に、道頓堀のカフェーに関する論考を寄せている。

●ちょっと周り道・・●
 パノン 「パノン」の正式な店名は、「キャバレー・ヅ・パノン」(Cabaret・De・Pannon[旗の酒場])で、道頓堀中座の前の芝居茶屋の隣りに、「白亜のセセッション風」の酒場(注5、図1)として、大正2年頃に開業しました(注6)。

図1 パノン外観

 この種の店舗は、キャバレー以前には「カフエー」と呼ばれていました。大阪における最初の「カフエ・キサラギ」(明治45年、注7)は、木津川橋の西詰南角(川口居留地東部)、すなわち、「工業奨励館(元大阪府庁)の対岸」に位置し、「日本建の其頃、よく見かけた所在の洋食店と異らない表構」としていますが、図2を見るかぎり、屋根の軒先部の処理やガラス窓に向けられた両開きの鎧戸から、「日本建」より、洋館風に見えますが・・。

 図2左奥の大阪府庁(明治7年)は、大正15年に大阪市中央区の現在地に移転したため、工業奨励館と改称されます(注8)。左側の木津川橋は、明治9年に鉄橋、大正2年にアーチ橋に架け替えられることから(注9)、図2は、「キサラギ」開業当時の周辺の景観と考えられます。作者鶴丸の30歳頃の作品でしょうか。

図2 カフエ・キサラギ外観

 図2の上部を見ると、「Restauraut Kisaragi」・「川口西洋料理キサラギ」とあり、「カフエ」の表記は見られませんが、“キャバレー太郎”の異名をとった福富太郎は、「カフエー」を店名につけたのは、「東京よりも一年早い明治四十三年」の「キサラギ」が最初、「キャバレー」をつけたのは、中座前の「キャバレー・ド・バノン」が最初としていますので(注10)、「キサラギ」は「レストラン」と「カフエー」を兼ねていたと思われます。

 大阪の洋風化は、慶応4年(1868)7月に設けられた川口居留地に始まり、明治32年7月に居留地が撤廃(注11)された後も、大阪や大阪人の洋風化に影響を与えたのでしょう。「キサラギ」には、文学・美術・音楽関係など人が集まるようになりますが、「パノン」ができると、それらの人たちは、「足場も便利な」「パノン」へ移っていきます(前掲注7)。

注5)鶴丸梅太郎「道頓堀のカフエー黎明期を語る」(『上方道頓堀変遷               号』昭和7年10月)。図1は、同論考より転載。「パノン」に関する記             述で断らない場合は、同論考による。
注6)増田周子「大阪におけるカフェ文化と文藝運動」(『関西モダニズム             再考』所収、思文閣出版、2008年)。一方、寺川信は、大正2年前後に           開店した「カフエ・ナンバ」の半年後(「大阪カフエ源流考」(『上             方第弐拾七号』1933年3月)とし、「モダン周遊 キャバレー・ヅ・パノ           ン〈旗の酒場〉」では、大正3年としている。
注7)前掲注6)「大阪カフエ源流考」には、開業時期について「遅くとも大           正二年以前」の注記がある。図2(鶴丸梅太郎画)は、同論考より転               載・加工。
注8)旧大阪府庁については、第49回参照。
注9)「大阪市」HP、「木津川橋」。
注10)福富太郎『昭和キャバレー秘史』(河出書房新社、1994年)。「カ               フェ・キサラギ」の開業については、「四十一年説」も紹介してい                 る。
注11)堀田暁生他『大阪川口居留地の研究』(思文閣出版、1995年)
           足場の悪い川口 川口は、大阪市中の西部に位置し、「足場」、すな             わち交通の便に恵まれない地域ですが、外国人を一定地域に集住させ             るためには、都合のよい地域でした。江戸時代の川口は、参勤交代の             藩主が大坂へ着船した際に役人が出迎え、藩主はここで船を乗り換                 え、大坂蔵屋敷に入りました。そのため、川口には、西国から来る諸             船を見張る「番所」や「舟手屋敷」・御三卿(一橋・清水・田安家)             の蔵屋敷などが設けられていました(注12、図3)。このように、船             の監視、外国人の集住などを考慮して、この地に居留地が設けられた             と考えられます。
           なお、川口居留地は、「大阪くらしの今昔館」に模型が展示されてい             ます。

図3 川口居留地

注12)拙編著『大坂蔵屋敷の建築史的研究』(思文閣出版、2015年)。図3             は、前掲注11)『大阪川口居留地の研究』より転載・加工。
           やっぱり道頓堀 「パノン」は「旗の酒場」といっても、レストラン             を兼ね、コーヒーも出しています。また、「セセッション風」な外観            と、洋画家達による凝つた内装が、芸術家や財界人などを呼び、「倶            楽部」のような存在でした。その間、多くの「カフエー」が開業する            なかで、「パノン」も外観を、「ハーフテンバーの老舗らしい渋い作            りにかへ、客席の一部を今のボックス席に設備する設計」がなされま            したが、実現していないことは、大正7~8年の道頓堀の町並みのイラ            スト(注13)に描かれた「パノン」の外観からも分かります。また、            このイラストには、「パノン創立事務所」が描かれており(注14)、            新「パノン」建設の準備が行われていたことが窺えます。「パノン」            は、改築が行われることなく、大正9年に閉店し(注15)、「今のユ              ニオンの所へ」、翌大正10年に新「パノン」(設計:設楽建築事務                所)が開業しました(図4、注16)。

図4 新「パノン」外観

注13)橋爪節也編『モダン道頓堀探検』p234(創元社、2005年)。イラス               トの掲載誌は、『道頓堀』第18号(1920年8月号)。
注14)前掲注13)『モダン道頓堀探検』p264掲載図。
注15)前掲注6)「モダン周遊 キャバレー・ヅ・パノン」。
注16)図4は、『近代大阪の建築』(ぎょうせい、1984年)より転載。

■鶴丸梅太郎と本間との出会い■
 鶴丸と本間が「パノン」で出会ったのは、大正12年末から同13年2月頃と推測されますので、鶴丸のいう「パノン」は、中座前の「パノン」ではなく、新「パノン」であったことが分かります。この時期、本間が、「明快な画期的な図案を世に送り出していた」と、鶴丸は回想していますが、鶴丸も「ベニス工房」を設立し、デザイン活動を行っていますので、共通の話題が多かったのではないかと思われます。もっとも、「図案店」の経営は思わしくなく、本間は大正13年3月、教員の道を歩むことになります。

 なお、新「パノン」は、昭和10年頃に、キャバレー「グランドパレス」になっています(図5、注17)。図4・5を比較すると、外観は類似していますので、内装を改めたものと思われます。

図5 グランドパレス外観

注17)「道頓堀写真館」より転載。

■閑話休題■
 今回は、鶴丸の回想にみられた「パノン」をきっかけに、「パノン」に関する事項を多く紹介しましたが、一方で、大阪の「カフエ」の源流を探るなかで、川口居留地の意義を再確認するとともに、大正初期から昭和前期にかけて、「パノン」が道頓堀の「カフエ」・「キャバレー」、もしくは、「カフエ文化」に与えた影響もみることができました。「モダン道頓堀」、今後も注目していきたいものです。

 次回からは、本間の教員時代について見ていきます。

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