旧赤阪小学校講堂③-地域のお宝さがし-25

所在地:〒484-0000 犬山市内山1

■移築がはじまる■
●移築計画●
前回も少し触れましたが、今回は、移築を担当した建築家池田谷久吉氏が作成した、移築前の校舎平面図(図1)、講堂立面図(図2)をもとに移築の経緯などをみます。

図1

図2

図1によると、移築は、第1期で北部の講堂に接続する教室・物置・便所など、第2期で西部の教室・玄関、南部の職員室・湯沸場などが解体される計画でした。このことから、講堂だけではなく、校舎・便所・湯沸場など、大半の施設が移築の対象になっていたことが分かります。

●設計変更●
池田谷氏は、移築に先立ち、講堂の設計変更の認可を昭和4年(1929)1月に大阪府知事に申請しています(注1)。その内容は、「前設計当時ニ於ケル第一階鉄骨柱巨大ニ過ギルヲ以テ経費ノ関係上荷重ニ対シ不安ナラザル程度迄鉄骨柱ヲ小ナラシメ設計変更ヲ行フモノナリ」、すなわち、講堂1階の鉄骨柱が大きすぎるので、荷重に対して安全な範囲で小さな柱に変更したいというもので、「前設計鉄骨柱ノ大サヲ変更スルノミ」と、鉄骨柱の寸法を小さくするだけで、それ以外は行わないとしています。図3は現況の柱と梁の構成です。変更の理由は「経費ノ関係上」としています(注2)。

図3

図2(講堂立面図)と図4(2階平面図)を見てみましょう(両図は方向をそろえています)。図2の2階右端の壁に小部屋が接続し、さらに支柱で支えられた渡り廊下が確認されます。この小部屋は、渡り廊下から5段上がって講堂へ入場するための前室であることが、図4から分かります。図4の左端の前室も同様です。講堂の1階が雨天体操場で階高が高いため、2階講堂の床面が高くなったのでしょう。

講堂の正面中央には演台が設けられ、その背面に「奉安殿」、左右に小部屋が配されていますが、右端は前室のため区画されています。

図4

奉安殿とは、戦前のわが国において、天皇・皇后の写真と教育勅語などが納められていた施設です。当初は講堂や校長室に設けられていたため「奉安所」と称しましたが、後には独立した「奉安殿」となります(注3)。

注1)当時の府知事は力石雄一郎(昭和3年5月就任、同4年7月退官)。
Wikipedia「力石雄一郎」
2)工事予算は43,550円(昭和4年)。金額の感覚が把握しにくいが、例えば、昭和6年の銀座の1坪の地価は6,000円、総理大臣の月給が800円の時代である(『値段の明治大正昭和風俗史』)。
3)堀川尋常高等小学校では講堂に設けられているので「奉安所」とみられるが、ここでは「奉安殿」で統一する。Wikipedia「奉安殿」

■移築後■
●赤阪小学校●
移築された赤阪小学校では、講堂の渡り廊下と前室が撤去されています(図5)。つまり、池田谷氏は移築に際し、渡り廊下を撤去し、奉安殿の右側の小部屋と不要となった前室を一部屋にし、講堂の中央に演台、背面に奉安殿、その左右に小部屋を配し、両脇に入口を設けたのです(図6)。

図5

図6

●明治村●
赤阪小学校講堂(図6)と明治村の奉安殿(図7)(注4)を見てみましょう。

図7

両図とも講堂内部の正面で、天井の仕上げ(格天井、一部折り上げ格天井)や照明器具の位置などから、ほぼ同じ視点で撮影されていることが分かります。中央演台の左右に注目して下さい。図7では、図6の両脇の小部屋は無くなり、正面中央部は奉安殿のみで、両脇は他の壁面と同様の竪長窓となっています。なお、図8は現在の奉安殿の外観で、図5と比較すると、窓も無くなっているのが分かります。

注4)『博物館明治村ガイドブック』(2008年)より。

■まとめ■
移築の経緯などを時系列でみると、以下のようになります。
①堀川尋常高等小学校当時、講堂の正面右隅に東側校舎からの渡り廊下があり、その前室から講堂へ入場することができた。
②赤阪小学校への移築に際し、渡り廊下と前室が撤去され、講堂の正面中央に演台、背面に奉安殿、左右に小部屋が配された形式となった。池田谷氏は、設計変更は講堂1階の柱の寸法を変えるのみとしていたが、奉安殿の右側前室の変更は、渡り廊下と一緒に撤去するので、設計変更にあたらないと考えたのだろうか。
③赤阪小学校では、昭和3年9月に校舎新築移転の地鎮祭が行われ、同4年5月第1期工事竣工、同年11月第2期工事着手、翌5年5月竣工。約1年4ヶ月をかけた移築工事が終了し、6月1日に落成式が挙行され、同日は創立記念日となった。
④赤阪小学校に移築された校舎は、昭和36年に鉄筋コンクリート造に建て替えられた。明治20年頃の建築と考えると、堀川尋常高等小学校までの40余年と赤阪小学校での30余年、70余年にわたり子供達を見守ったことになる。あと10年残っていれば、講堂と一緒に明治村へ移築されたかも知れない。明治中期の小学校の校舎と講堂が残されているのを想像するだけで楽しくなる。
⑤赤阪小学校から明治村への移築に際し、奉安殿の左右の小部屋が撤去され、他の壁面と同様の竪長窓に変更されているが、この改変の理由が気になる。例えば、昭和45年という移築時期を考えると、戦後教育において不要となった奉安殿の形態のみを保存し、左右の小部屋は撤去したということなのだろうか。現在の奉安殿の形態が元の奉安殿と異なることを記した文献に出会っていない。

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