建築家竹内綠の仕事④-地域のお宝さがし-106

■竹内綠の論考■
 竹内建築事務所員中村義雄が、自身の事務所開設と『住』発刊の許諾を得て、竹内事務所での勤務を継続したことは紹介しました(注1)。ここでは、竹内が『住』に寄稿した論考を紹介するまえに、『住』についてもう少しみておきます。

●建築雑誌『住』●
 『住』(図1、注2)の第1号(大正15年4月)をみると、「住宅習作」の項目があり、中村が設計した2階建て住宅の平面図が掲げられています。この項目には、後に、「住宅創造」や「住宅デッサン」なども加わり、多彩な平面や立面図が掲載され、視覚的に楽しめる誌面構成になっています。同号の「編集散録」には、「・・竹内綠氏には、我々のこの企てに対して非常な御後援に預って居ります。」と、竹内に対する感謝の辞が述べられています。
 また、昭和2年1月号には、所員中村勇・土屋史郎・道田泰治郎の設計作品が掲載され、同年3月号の「編輯後記」には、竹内が編集顧問、中村勇・道田の編集同人就任が記されており、竹内が所員とともに、『住』発行を応援している様子が窺われます。

図1 『住』表紙

注1)第104回に中村事務所の広告を掲載(図5)。
注2)図1は、中村氏が所蔵されていた余分を頂いたものである(昭和2年10            月号表紙)。

■植物温室■
 竹内が、『住』に寄稿した「家庭向き植物温室の設計」(昭和2年1月号)をみましょう(注3)。竹内は文頭で、「趣味の上より、温室を造りたいと云ふ方の為に本文を綴りました」と、記事の読者を明確にし、趣味の園芸には、「花樹、草花類栽培が尤も適当」と、栽培種をアドバイスしています。
 そして、温室の設計にあたり、具体的に敷地・家族構成定します。

●想定された住宅●
 敷地は約180坪(594㎡)、住宅は建坪40坪(132㎡)、2階建てとし、温室は前庭(約100坪[330㎡])に設け、客間・居間・食堂あたりから見える場合は、外観や構造を「良きもの」にする、つまり見栄えも考慮しています。また、温室に収容する以前に、花樹などを栽培する「フレーム」の作り方と維持などにも触れており、ここでは、前庭南部に幅3尺(約91㎝)、長さ2間(約182㎝)の「フレーム」が6棟設置され、住宅との間に生け垣による目隠しが作られています(図2)。

図2 配置図兼平面図

 昭和初期に、園芸を楽しむために温室を作る人(家族)が増えたのか、またはこの時期に住宅の温室が定着していたのかは分かりませんが、想定された家族は、主人(サラリーマン)・主婦(40歳前後)、長女・長男・次女、下女1人です。大正時代から、サラリーマン(給与生活者)、いわゆる市民層が増え、郊外住宅地の開発なども始まりますので、この敷地は、郊外住宅地を想定しているのかも知れません。
 平面は、北面中央部に「玄関」、式台に面する「三帖」は独立して、東部の「書斎兼□□」(注4、以下、書斎)につながります。「書斎」には「地袋」・「タナ」、続き間となる南部の「客間」には、「タナ」・「床」が設えられ、東部が接客空間といえます。「温室」は、この東南部に配されており、応接にも使用されたことが、「温室」(図3後掲)に配された「茶卓」といすからも窺われます。
 南面中央「六帖」の室名が不読ですが、西部の「主婦室兼食堂」(以下、主婦室)とつながることを考えると、茶の間的な室と考えられます。「主婦室」は、畳数の表示がないので、洋室かも知れません。北部の「台所」は、板間の北面と東面の開口部に面して記されているので、流し台を設置した洋室と考えられます。「台所」の西部に水回り(「フロ・脱衣・洗面・化粧」)がまとめられています。
 平面全体をみると、「玄関」の東部は接客空間、西部は日常の生活空間と考えられ、双方は、「玄関」南部に配された中廊下によって区分され、生活空間の各室は、中廊下に面して南北に配されています。東端の便所は、来客用の上便所(かみべんじょ)で伝統的な設えです。家族用は、西端の「洗面」に続く「化粧」と思われますが、便器の配置などが描かれていないので、不詳です。接客空間と生活空間が、中廊下によって明確に分離されている点、「食堂」・「脱衣」・「洗面」・「化粧」の室名に、洋式生活の浸透が窺われます。なお、子供室は2階にあるようです。

注3)著者は、「建築士MT生」とあるが、同年年10月号所収の、各号の             「内容」には、「竹内綠」と明記されている。この「内容」によると、            竹内は、同年3月・4月・6月・7月号に、「家庭向きの植物温室の設                 計」を連載している。なお、「建築士」は、「建築家」の職能の確立            を目指して活動していた日本建築士会会員の呼称で、法制化された現             在の建築士とは異なる。
注4)文字が不明瞭のため、不明な文字は□で表示。

●温室●
 温室(建坪約5坪[17.5㎡])の平面は八角形(1辺6尺[約182㎝])、軒高9尺(約272㎝)、腰壁は高3尺(約91㎝)、仕上げはコンクリートなど。内部は、床を地面より1尺(約30.3㎝)高くし、床仕上げはタイル張りなど。周囲にガラス障子を建て付け、回転窓を取り付け、暖房はアルコラボイラーで行います(図3)。

図3 温室平面・立面図

■T氏の住宅■
 竹内は、「T氏の住宅」(『住』昭和2年10月号所収)のなかで、「バラックの洋館より日本風の住宅の方実際上品でよいと思ふ 外観は勿論日本風で、室内に洋室の設備をすることは現代の住宅として最も落付きと上品な気品を備へることであろう」と、和風への嗜好を示しています。一方で、外観の和風、屋内の洋室と、建築家として、和洋折衷という二重生活の問題に関心をよせていること、昭和初年には、庶民の住宅にも「洋室」の住まい方、すなわち、椅子式の生活様式が確実に広がっていることが分かります。
 竹内は、「此の住宅は 氏の為めに作った住宅でありますが、私の最も理想に近きものゝ一つです建坪は三十一坪ですから上等から中等借家位迄に工費を考へて見れば六千圓から四千五百圓、借家建位であれば三千圓以内で仕上げることが出来ます、勿論安くなるとは材料を安いものにすることの他入母屋造りを方形にでも変へねばならないと思ひます、図で御覧下さい。」としています。

●平面●(注5、図4)

図4 平面図

 接客空間 平面は、中央部下部に「玄関」を設け、「玄関」(土間はタイル張り)の左側に「女中室」を配し、「玄関」に面する「広間」(タタミ敷)から逆コの字型に中廊下と縁側を回して、平面全体が大きく左右に分割されています。「客間」・「居間」が続き間となり、前者に「ビワ床」・棚、後者に「地袋」・「押入」が設けられており、独立しての使用も可能です。「居間」は、さらに「書斎」・「読書室」とつながります。「書斎」には、テーブル・ソファが置かれていますが(「和洋折衷」)、「読書室」は和室のようです。その左の「庇樓」(意味不明)は、両側面の「カーテン」、下部の「出窓格子」で囲まれているので、中庭と思われますが、用途は不詳です。この右側は接客空間と考えられます。
 生活空間 左側は、中廊下に面して、「茶之間」・「主婦室」が配されており、この2室が、日常の生活空間と思われます。「主婦室」の右側に位置する便所は、接客空間と生活空間の双方から使用されます。「茶之間」の左側の板の間は、「浴」(浴室)・「台所」に面しています。「台所」の流し台は、「タタキ」に設けられ、板の間は配膳などに用いられたと思われます。
 図4と図2と比較すると、全体に和室の多いことが共通しています。和風を好む竹内は、二重生活解消の手段として、接客空間と生活空間を中廊下などで明確に分離していますが、室の配分は和室を主にし、洋室は、「書斎」・「浴」・「台所」に限定したのかも知れません。また、図2で設けられていた接客用の上便所が、図4で設けられていないのは、この住宅での接客の重要さが下がったのかも知れません。

注5)方位が不明なため、位置関係で記述する。

●立面●(図5)

図5 立面図

 立面は、入母屋屋根が特徴的ですが、竹内は建築費用を安くする方法の一つとして、「入母屋屋根を方形にでも変える」ことを示唆しており、屋根の形態から住宅の格式を考えていたことが窺えます。
この住宅では、外観は和風、屋内には床の間などによって格式を整えた「客間」を設ける一方で、洋室の「書斎」を設けるなど、椅子式の住まい方が浸透していることが分かるとともに、和風を好んだという、竹内の住宅観が窺えます。

■閑話休題①■
 温室の設計に詳しい竹内は、家庭用温室を作るポイントを紹介するために、敷地と住宅の例を示しますが、敷地180坪は、当時でも大きいと思われますし、40歳位のサラリーマンの収入で、自宅に温室まで作ることができたのかと、いぶかしんでしまいます。「温室」に対する、竹内の思い入れかも知れません。
 T氏住宅の建築費は、上等から中等借家で「六千圓から四千五百圓」、借家で「三千圓以内」としています。現在の価格に安易に置き換えられませんが、昭和6年当時、東京銀座の地価(1坪)は6,000円、総理大臣の月給は800円。やはり相当な金額だと痛感します。

■閑話休題②■
 重信会館(図6、竹内綠の現存作品、京都市下京区)

図6 重信会館外観

 「重信会館」は、すでに紹介されており(注6)、そこに、「竹内建築事務所は竹内緑のことか?」とのコメントが付されています。筆者は、ご子息から、事務所が大阪にあったこと、本願寺とは関係のなかったことなどをお聞きしていましたので、同名の事務所かと思っていました。ただ、竹内が大日紡勤務中に世話になり、独立後も「大谷仏教会館」(第10回参照)の設計などの仕事を紹介してくれた、重役田代重右衛門の存在が気になっていましたが(「建築家竹内綠の仕事②」[第104回])、確かめるすべもありませんでした。
その後、「重信会館」で行われた展示会に行く機会があり、外観を見ることができましたが、1階の展示会場は暗転されていて、室内の様子は分かりませんでした。東本願寺に見学を申し込み、その際に頂いた資料に、田代重右衛門が大谷仏教会館の設計に関係していたことが記されていたことから、竹内綠の設計と判断しました。
竹内の現存作品は、「大谷仏教会館」(外壁)だけでしたが、もう1点、しかも傷みはありますが、ほぼ完璧な形態が維持されていることに、本当に驚きました。

注6)『西日本近代建築万華鏡』「京都市下京区」。ここでは、竹中工務店                 の写真集に掲載された「田代会館」として紹介されている。

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