建築家竹内緑の仕事③-地域のお宝さがし-105

今回は、建築家竹内綠が設計した作品を紹介します。

■三十四銀行■
 三十四銀行は、明治11年(1878)4月、第三十四国立銀行として開業しますが、同30年9月、株式会社三十四銀行となり、大阪高麗橋に本店が置かれました。その後、いくつかの銀行と合併を繰り返し、昭和8年(1933)12月、鴻池・山口銀行と合併して三和銀行(現三菱UFJ銀行)となります(注1)。ここでは、同銀行の難波支店と谷町支店を紹介します。

注1)「三十四銀行」(Wikipedia)、「三菱UFJ銀行の沿革」

●三十四銀行難波支店●
 難波支店は、敷地面積116坪、建坪88坪6合、延坪127坪、鉄筋コンクリート造(以下、RC造)による2階建てで、様式は「近世式ニシテ、古代エヂプト模様ヲ取リ入レ」て設計されています。
 正面は、左右対象の外観で、両端を壁面、残りを9分割し、縦長窓によって垂直性が強調され、中央部(3柱間)は一段前に突き出し、軒端に装飾が施され、入口の庇上部に半円アーチ窓が設けられています。壁面上部は、迫り持ち形式のパラペットとした、重厚な意匠の建築で、昭和3年2月に、大阪市浪速区難波元町5丁目(当時)に竣工しました(図1、注2)。

図1 三十四銀行難波支店

 この建築は戦災を受け、戦後大阪市の管理下におかれ、一時、浪速区役所として使用されています。前面道路の拡張にともない、土台ごと15mほど後退させ、昭和28年頃より星光社難波印刷工場として用いられてきました(注3)。昭和50年頃に、正面のコンクリートの剥離が激しくなったため、バラペット部分を鉄板で覆い、躯体に吹付けが施されていましたが、側面は建設当時のままでした(図2)。

図2 旧三十四銀行難波支店側面(昭和58年頃)

 現在では、位置が分かりにくいですが、戦前の難波元町5丁目は、昭和55年に1~3丁目に改変されていること(注4)、難波八阪神社(第18回参照)の東部に位置する「協栄生命」が、図2の「□栄生□」と判断されることから、その位置が特定できます(図3)。

図3 旧三十四銀行難波支店位置

 内部は、吹抜け空間の周囲にギャラリーが設けられ、下面と側面に装飾が施された梁を、簡略化された柱頭飾り(オーダー)が支持し、銀行らしい雰囲気が感じられます(図4)。階段付近には、エジプト模様を思わせる植物文様が施されたオーダーが残されていました(図5)。

図4 吹き抜けと周囲のギャラリー
図5 階段付近のオーダー

注2)「建築と社会」(1928年3月号)。図1は、同誌より転載。
注3)星光社のご教示による。同建築に関する記述は、断らない場合、星光             社の聞き取りによる。
注4)「元町(大阪市)」(Wikipedia)

●三十四銀行谷町支店●
 谷町支店は、敷地の隅角部に入口が設けられ、1階の上部に装飾が施された水平帯を設けて基壇とし、上部の2層の正面は、柱頭飾りのある4本の通し柱で3分割され、左右の梁には矩形の装飾が施され、全体では3層に構成されています。軒先にも装飾が施された華やかな意匠の建築で、昭和4年頃に建築されました(図6、注5)。

図6 三十四銀行谷町支店

 この建築は、外観の装飾が取り払われていましたが、谷町筋と大手通り交差点の南東に近年まで残されていました。信号を待っている時に、それと気づいて驚いた記憶があります。

注5)『近代大阪の建築』(1984年)。図6は、同書より転載。

■銀行建築の様式■
 銀行建築には、信用の表徴として、明治時代以降、重厚さや威厳を感じさせるルネサンス様式が多く採用されてきました。昭和初期には、三十四銀行(元国立銀行)でも、ルネサンス様式に連なる系譜(近世式)の難波支店や、威厳よりも華やかさが重視された谷町支店が建築されています。一方で、交野無尽本社が、「銀行建築には珍しくゴシック系のデザイン」(注6)で、昭和4年に建築されています(図7)。「無尽」のような、庶民相手の金融機関では、威厳を示す意匠より、左右非対称で軽快なゴシック様式が採用されたのかも知れません。

図7 交野無尽本社

 非装飾の軽快な意匠は(モダニズム)は、昭和初期から建築されるようになりますが、銀行や金融機関よりも、商業建築に採用されたと思われます。

注6)「大阪文化財ナビ」。設計:橋倉覚平、施工:大林組。

■肥塚ビルディング
 肥塚ビルディングは、敷地面積69.21坪、建坪58.77坪、延坪237.91坪、RC造による3階建てで、様式は近世式で設計され、昭和4年8月に、大阪市東区横堀2丁目(当時)に竣工しました(図8、注6)。

図8 肥塚ビルディング

 軒部分のロンバルディアバンド以外に装飾は少なく、壁面の開口部上下の枠や円形窓、屋上の煙突に施された水平線に、アール・デコの雰囲気が感じられる意匠の建築です。
 設計は、「錢高組」と記されていますが、元所員(中村義雄)によると、同組からの依頼で、竹内建築事務所で設計したとのことでした。

注6)『復刻版近代建築画譜』[2007年]より転載

■近世式あれこれ■
 今回紹介した建築では、三十四銀行難波支店(図1)と肥塚ビルディング(図8)が、「近世式」と記載されています。前者は、「近世式ニシテ、古代エヂプト模様」を取り入れたと記され、後者について、筆者は、アール・デコの雰囲気が感じられると思っています。この両者が、同じ「近世式」では分かりにくいことです。
 明治以降に移入された、西洋・近代建築の変遷と相互の関連を見ると(図9、第50回参照)、同じ「近世式」でも、図1は「近世復興式」、図8は「アール・デコ」の延長と思われます。

図9 西洋・近代建築の流れ(模式図・試案)

■閑話休題■
 建築家竹内綠が設計に関与した建築を紹介してきました。三十四銀行難波支店は、昭和3年2月に竣工していますが、元所員(中村義雄)によると、その設計は大正12~13年頃だそうです。この時期、三十四銀行の頭取は菊池恭三でした(前掲注1)。とすると、三十四銀行の仕事は、菊池の紹介であった可能性もあるのか!と妄想しています。竹内の意匠について、元所員(道田泰治郎)によると、土木の出身であり、大日紡勤務が長かったため、これといった作風は持っていなかったと思われます。そのため、「近世式」などが意匠のよりどころになったのかも知れません。また、一方で、特に和風を好んだ(中村義雄)とも聞きました。
 市井で活動した建築家のほとんどは、無名のまま生涯を終えていますが、建築家竹内緑は、日本レーヨン宇治工場・三十四銀行難波支店などで名を知られます。また、代表作品の大谷仏教会館は、装飾の美しさで生き残り(外壁保存)、この会館によって、竹内は建築史にその名を刻むことになったのです。
 次回は、竹内が設計に関与した住宅などについて紹介します。

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