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その息遣いを私は覚えている【中編】


 まともに見れた物では無かった。
 いや、例えまともだったとしても多種多様な花に彩られ、毎日欠かさず見ていた寝顔と何ら変わらない穏やかな顔をしているリクを、どうして私が面と向かって虹の橋へと送り出す事が出来るだろうか。
 どうにか直してくれたのだと言う。今見えている顔の反対は、飛ばされてコンクリートの上を滑ったせいでとても見られたものではなかった。
 様々な手続きが終わり、家に戻ってお気に入りの玩具や毛布に囲まれるリクの傍らでただ床を見つめているだけ。それ以外に私がした事と言えば、お風呂で頭から水をかけ続け、コップ半分にも満たない麦茶を飲んだだけだ。
 両親が私に何度か声を掛けてくれたりしたように思うけれど、何と言っていたか覚えていないし、本当に声を掛けてくれていたのかさえ分からない。
 とにかく、とにかくリクを視界には入れつつも直視せずに傍に座っていた。

 いつの間に眠り込んでいたのか、夢を見ていた。
 だだっ広い野原を私とリクが一緒に走っていた。どこに向かっているのかはどうでも良く、どこかに向かってただ走っていた。風が心地よかった。
 突然リードが私の手からするりと抜け、リクはその勢いを増してどんどんどんどん遠くへと走っていく。置いていかれる私はリクに戻るよう呼び掛けるけれど、聞こえていないのか距離を離していく。
 そしてリクは点になり、スっと消えた。
 私は大きな脱力感に見舞われ、その場に座り込んだ。
がっくりと頭を垂れると目の前が真っ赤に染まっていて、驚いて辺りを見渡すと、地面という地面が全て赤黒い液体で覆われていた。

 そこで目が覚めた。
 ばっと体を起こして部屋を見回すと、リクは確かにそこにいた。
 しかしこの世界のどこにもリクはいない。
 いない……違う、私が…………私が殺した。
「おぇっ、おえぇぇ」
 強烈な吐き気が襲い、酸味のある液体が口から零れ床を流れていく。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 その場に蹲ってどれだけ謝罪を繰り返しても、リクは帰ってこない。
 私が殺した……。
 そうだ、私なんかが傍にいてはいけない。傍にいる資格なんか無い。
 私は自室に駆け込み毛布にくるまった。

 それから一睡も出来ずに朝を迎え、母が部屋を訪ねてきた。
 母は
「あなたのせいじゃない、きっとあなたと過ごした日々は幸せだったはずよ」
 と、慰めてくれはしたが、どんな言葉や物があった所で何にもなりはしない。だって私の元に来さえしなければ、痛い思いなどしなかったはずだから。誰か別の人が貰い受けて、病気や怪我の1つもせずに生きてくれていたかもしれない。
 私が無言で返答すると今度は、ご飯は、と聞かれたのでいらないとだけ答えた。すると母は私の頭を軽く撫で、階下へと降りて行った。

 火葬は110分掛かった。ボタンを押すなんて出来なくて、代わりに父が押してくれた。すぐ隣には天命を全うしたらしい猫が笑顔に包まれ送り出されていて、それがまた深く心を抉った。

 その夜の事だった。
 骨壷を仏壇に供え、そのまま倒れ込む様にまた眠ってしまい、気が付けば毛布を掛けられていた。
 両親はリビングでテレビでも見ているのだろうか、控えめな音量の音楽が流れている。
 話したくはないけれど、両親に何かを話さなければならないような気がした。葬式の事とか色んな事を……
 そう思い起き上がろうとした。
「…………?」
 床にトリモチでもついているのかと思うくらい体が引っ付いて離れない。それどころか首も動かせないし、両親を呼ぼうとしても口が開かない。
「んーー……んーー」
 どれだけ叫ぼうとしても引か剥がそうともがいても、唇1つ動かせない。辛うじてかなりゆっくりなら瞬きが出来るかというところだ。
 金縛り? それともまだ夢の中?
 混乱が頭を占める。が

……ポス

 と足元から小さく聞こえた音に、混乱に満ちた頭が意識を持っていかれた。
ポス……ポス……
 音は左右に揺れながら、布団の上をゆっくりと私の頭に向かってやって来る。よく聞けば音は私の体を跨いでいはしないか……?
 目玉だけを精一杯その音の方に向けるが何も見えない。何が私の上にいるんだ。
「んー! んーー!」
 腰を越えお腹の上で鳴るやいなや、その何かの重みがぎゅうっと乗っかって来た。
 思わぬ圧迫に呻き声が出そうになるが、無理矢理閉じられた唇に阻まれ空気だけが口内に充満し、行き場を失って鼻水と共に鼻から噴き出す。その噴き出した鼻水や他の何かしらが鼻の穴を塞いでしまい、途端に呼吸困難に陥ってしまった。
 幽霊なのか分からないが、まさかそんな事態になるなんて思わない。どうにかしないと……!

 人生初の呼吸困難に直面しそれ以外が頭から抜け落ちた時

ハッハッハッハッハッハッ……

 息遣いが聞こえた。聞こえた、と言うよりは直接脳内に響いている様な、最近立体音響で観た映画館の中にいる様な、そういう何にも邪魔されずに真っ直ぐ届く感じだった。

「…………っ! ぷはっ! はあっ! はあっ!!」

 そして、解放された。
 全身が私の言う事を聞くようになり、切望した酸素を取り込んでいく。血と共に熱々とした物が全身に行き渡って行くのが感じられる。
 もう一度大きく息を吸った。


 ……………………………………あれは

「……うっ……うぅ…………うぅぅ〜〜」
 あれは間違いない。聞き間違えるはずが無い
 だって、だってあれはずっと隣で聞き続けてきた、誰よりも長く一緒に居た…………あの子の息遣いだから。
「うぅぅ……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 私の元に現れた。現れてくれたけど……恨んでいるに違いない。私がしっかりとリードを握っていさえすればリクは死ななかった。お前のせいだと言いに来たんだ。
時間が戻せるならそうしたい。あの時に戻りたい。いや、そもそも公園に行きたいなんて言わなければ、私がどうしようもないせいで……私さえいなければこんな事には…………
「ごめんなさいぃ……」
「……入ってもいい?」
 いつの間にか母が扉の隙間からこちらを覗きこみ、私の様子を伺っていた。さっきまで点いていたはずのテレビの音も聞こえない。
 今の今まで私の状況を知らなかったという顔をしているが、そんなのはどうでも良かった。
「お、お母さぁん……私……私」
「大丈夫、大丈夫だから。ほらおいで」
「私のっ、私のせいで、リクがリクが……」
「あなたのせいじゃないわ、誰のせいでもない。事故だったの。偶然が重なってしまっただけ」
「違う! 違う、だって今、今ね、リクが」
「リクが? リクがどうしたの?」
「リクが……私のとこに来て……私に怒ってたの」
「…………」
「絶対そう……だって私の所に来なかったら……」
「それは違うわ。リクはあなたの所に来て絶対幸せだった。確かにリクはもう虹の橋を渡ってしまったかもしれないけど、思い出が無くなったりする訳じゃない。それにもし仮にリクがお化けになってあなたの所に現れたとして、本当に恨んでると思うの?」
「……分からない……だってリクはもう…………いないんだもん」

 それからほぼ毎日リクは私の元に現れた。大抵は寝ている時で、ふと目が覚めると身体の自由が利かなくなっていて、私を踏みつけて暫く居座ると消えていく。ある時には思い切り体を揺さぶられる事もあった。
 体が自由になり私が泣くと母か父が飛んで来てくれたが、口ぶりからして幽霊になったと思っている感じではなかった。
 リクの葬式から1週間が経つと学校に顔を出してはどうかと促すようになった。無理はしなくていいけど、と枕詞を添えて。
 学校に行くと友達からいくつか言葉を掛けられた。残念だったねとか怪我は無かったかとか、本気で心配してくれる子もそうでない子もいたけれど、皆一様に2日もすれば何処吹く風だった。

 夜が来るのが恐ろしかった。
 道で犬と出会うのが恐ろしかった。
 あの公園の近くを通るのが恐ろしかった。
 家にあるリクのリードが恐ろしかった。

 2週間もすると私は不眠症になりかけていて、学校でもどこでも眠気が襲ってきた。外にいる時に金縛りになることは無かったけれど、代わりに悪夢を頻繁に見るようになっていた。
 どれもこれもリクが死ぬ夢。視点が違うだけで


 リクが死んでから1ヶ月が経ち、気が付くと私はあの公園に来ていた。あの日以来1度も自分で訪れたことは無い。公園では何も変わらない風景が延々と続いていて、気温だけは季節の移ろいを感じさせる。
 その真ん中を生温い空気を伴って突っ切っていき、柵の隙間に身体をねじ込んでいく。隙間は私が通るには余裕があった。
 道に出ると右から左へと車が通り過ぎていくのが巻き込む風と共に間近で感じられ、街路樹が湿った音を立ててはまた車の通過を待っていた。

 限界だった。
 1台の乗用車が現れた。制限速度をオーバーしているのだろうが、知った事ではないといった面持ちで進んでいる。
 跡形もない焼けたアスファルトの上にへたりこむ。

 最早聞きなれた音が周囲に響き渡った。

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