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神のシュトーレン

※作中に一部差別用語が使用されておりますが、そういった意図は一切ありません。
世界より差別と貧困、虐めや戦争が無くなる事を祈って
※また、クリスマスを楽しんでしまった為、第七夜(最終話)は明日更新します🎄
皆さんメリークリスマス🎄🎅✨🎁🦌

第一夜【始まり】

 その男はかくも不憫なる人生を送っていた。
 学友恩師共に恵まれず、高校を出る事も叶わなかった。些細な食い違い嫉妬意味の無い苛め等々事由を挙げればキリが無いが、兎に角味方となる人物が皆無だった事が一番の要因であろう。
 男が幼き頃、両親は詐欺に逢い多額の借金を背負った挙句に自殺。養護施設に引き取られるも施設長の度重なる虐待により人間不信となる。その後一時気の良い中年夫婦に引き取られるが、不況の煽りを受け勤めていた会社が倒産し、高校2年の夏に完全に独り身となる。
 容姿は別段悪い訳では無かったが、かと言って特徴も無い平凡、中の下辺りであった。整えればそれなりに見えるであろうが心身への自信の無さから、この顔もコンプレックスの1つになっていたのは間違いない。
 仕事は昼夜問わない土方の為に肉体は常に悲鳴を上げていた。六畳一間の公営団地に住み、テレビも無い。唯一の楽しみと言えば、土方の先輩がくれる仕事終わりのジュースと新聞くらいなもので、読み書きがあまり出来ないのが歯痒く、読める漢字と平仮名で穴が開く程読んだ。また新聞のテレビ欄裏にある四コマ漫画を切り抜き自作で本を作っていた。
 その土方の仕事に役場のメスが入ったのが27の頃だった。
 労働体制も然ることながら、税金関連に先輩らから新人に対する当たりの強さ、裏社会との癒着、そういった積み重ねが明るみとなり瞬く間に会社は消えた。
 そして責任の一端を背負っていた男は、安い公営住宅すらも失い、30になる頃には所謂ホームレスに身を落とすこととなったのだった。

 それから早数年。男は観測史上稀に見る寒冬に身を震わせていた。すぐ横でも同じ様に震える男達がいたが、彼等はかの男よりも三回り程歳が行っており、突き刺す寒さは骨を軋ませ身体機能を著しく低下させていた。男はまだ若さ故に健康を保てていたが、国内におけるインフルエンザの感染状況を鑑みるに、一度掛かってしまえば生命の危険すらあるだろう。実際に川の対岸に住まいを構えた50代らしきの男は、発汗による脱水と冷却により風前の灯であった。こちら側に住む男等は
「寒いから出てねェんだ」
 と、思い込んでいた。
 ホームレスは正しく助け合いこそが命であり、無関心を装えば自身へと返って来るとその誰もが知っている。だからこそもう少し雪が止めば様子を見に行かねばなと考えていた。
 遅きに失したのだと知るのは、それから数日経って床と同じ温度となったその男を見た時であった。

 対岸がこの寒空の如き空間になったのは師走の半ば。
 男は一人公園のベンチに座り空を眺めていた。空には瑠璃色の体毛の美しい鳥が一羽、気持ち良さそうに飛んでいる。
 男はふとその鳥を見て
「嗚呼、俺もあんな風に自由に何処へでも行ければ幸せだろうに」
 そう思った。男は自分の姿を見た。埃が纏わりついた襤褸切れと穴の空いた靴。頑丈さが売りのGパンには幾つもの横線が入っている。手は乾燥や日頃のゴミ漁りのせいでヒビ割れていた。髭も伸び放題だった。鼻から吸い込む臭いは最早俺には分からない。
 一体どこでどう間違えたのだろうか。両親に恵まれず保護施設では暴力を受け、高校を中退し流されてここにいる。俺を避ける様に周囲には誰もおらず、この空の虚しさと鳥の美しさを語る相手もおらぬ。
 嗚呼、本当に一体どこで間違えたのだろうか。或いは、最初から産まれてこなければこうはならなかったとも言える。かと言って死を望むかと言われれば、その勇気はこの細々とした体の何処にも残っていない。タイミングを逃したと言えばそうなのかもしれないが、兎に角、只只死んでいないだけという状態なのだ。
 男は大きく溜息を吐いた。
 そろそろ小銭と空き缶を探しに行くとしよう。

 顔を上げると目の前に一人の老人が立っていた。
 髪も眉も髭も真っ白で綺麗に整えられている。
 皺1つ無い丸襟の白シャツに青いボタン、ズボンもまた白であり、鼈甲柄の尖った革靴を履いていた。
 見知った顔では無い。この辺りのホームレスではないし、小綺麗な見た目をしているが、この寒空の下寒く無いのかと思った。
 何か用かと聞こうとすると、その老人は徐ろに手を前に突き出して制止した。
「時は無常に過ぎ行くのだ。無為に過ごしてはならない。荒波に揉まれ流されたとて、停滞を選んではならん。泳ぎ続ければ何時かは岸に辿りつこう。冬の次に春が来るが如く、或いは、置き忘れた木の実が何時か大木となり自らに恩恵を与えんが如く」
 老人は男の目を見据え言うと、続いて銀の包みを何処からか取り出した。
「今日より一日につき一枚ずつ、願いを込めて食べよ」
「はぁ」
 男はその包みを受け取り中を改めた。銀紙を拡げた途端、えも言われぬ芳ばしい香りが男の鼻を刺激した
 中身は数枚に切られた洋菓子、シュトーレンだった。

 シュトーレンをくれた理由を聞こうかと顔を上げるとそこにはもう老人の姿は無く、遠くの空に一羽の青い鳥が飛んでいた。
 呆気に取られてポカンと口を開け、今し方起こった事について数瞬思考した。夢か幻でも見たのだろうか。しかし手の中に良き焼き色の付いた洋菓子が収まっており、夢でないのだとその重みと香りが訴えた。
 男は思考を変更した。折角貰えたのだ。仲間にも渡して共に食べようではないか。その前に一切れ頂くとしよう。
「まぁこれでこの冬が凌げる訳が無いけどな」
 言って齧り付いた。口の中には生地から香る濃いバターと、細か切られた彩り豊かなフルーツのハーモニーが瞬く間に広がっていった。
 久しぶりの甘味である。至福という言葉では足りない程の時間が過ぎた。
 口の中の水分が大分持っていかれてしまったが、あと一切れくらい食べても文句は言われないだろう。
 そう思い二切れ目に手をつけようとした時、前方から2人の子供が歩いてくるのが目に入った。
 2人は明らかに自分の元へと向かって歩いている。幾つか小言でも言われるのかもしれないが、大抵の悪口は慣れたものだ。土方の時には3Kだったが今は4K。
 臭い、汚い、気持ち悪い、来るな。
 あれこれ言われる前に消えてしまおう。嗚呼、消えろも入れて5Kだったか。
 シュトーレンを包みベンチから立ち上がると、2人は速度を上げて俺を呼び止めた。
「あの、今日の夕方すぐそこの空き地で炊き出しをする事になって、良かったら来ませんか」
 なんと図らずもご飯にあり付けてしまったのである。話を聞くとつい先程近所の自治会で急遽決定したらしく、子供達を走り回らせていると言う。それにその炊き出しは週に1、2回やると言うではないか。
 災害時でも無いのにわざわざホームレスの為に? しかも子供を使って知らせて回る等寡聞にして聞かないが、男は大して疑問を持たずに仲間を連れ空き地へと出向いた。
 多少の目線はあれど飯にあり付けるならばどうと言うことはないのだ。

 男は温かいごった煮と白い米をお腹に詰め込み、子供等と近所の主婦、役場の人間に感謝を述べ橋の下へと帰宅した。
 男は自身のみすぼらしい家を見て
「嗚呼、温かい食事で腹は満たされた。然しあの子供等はあれから温かい家に帰り風呂に入って汗を流し、温かい布団で寝るのだろうな。白い枕白いシーツ、幾度夢見て幾度諦めた事かもう覚えていない。いや……今はこの腹の温かみだけを考えて眠る事にしよう。久しぶりに米が食えただけでも有り難いのだから」
 と思い、腹を摩った。すると日中に貰いまだ仲間に渡していない菓子の膨らみを思い出した。
 もう仲間は寝ている。明日渡せば良いだろう。

 時刻は夜の十二時を過ぎていた。
 男は包みを開いて一口頬張り、襤褸切れに包まり眠りについた。
 これから自身の身に次次起こる出来事等夢にも思わずに。

第二夜【脱却】

 朝は夜明けと共に起床する。生活のリズムを整えているという高尚な物ではなく、夜暗くなると電気が目立ち言いがかりを付けられる為、遅くまで起きている事は少ない。そして睡眠時間だけは取れるので、川面に照り返した朝日が室内を明るくするとそのまま起床するのである。早く起床すると良い事もある。酔っ払いや若者が残したビールの空き缶や食べ残しといった物を拾得出来るからだ。上手く行けば昼飯を確保出来るし、金銭を発見する事もある。
 だが今日は違った。昨夜が遅かったのもあり朝7時を過ぎても起きられず、今日は緩やかに過ごすのもありかと考えていた。
 そうこうしている内に外が騒々しく、時に驚嘆の声を上げるのが耳に入った。もぞもぞと冷えた体を動かし布の隙間から顔を覗かせると、それに気付いた仲間の一人が動かし難い膝を懸命に曲げながら近付き、興奮を抑え切れぬ様子で言った。
「おい! 早く起きねえか! こりゃあぶったまげるぞ! 生きてりゃこんな嬉しい事もあんだなぁ……お天道様に感謝、いや、役人に感謝しなきゃなんねぇな!」
 いまいち要領を得ず首を傾げたが、その言葉の真意はすぐに知れた。
 住処から這い出すと日向にお馴染みの顔が立っているのが見え、目が合うと彼は気さくに手を上げた。
 彼は役場の社会福祉課に勤める人間の内、唯一無二男等に対し社交的な態度を取ってくれる人物であった。ホームレスからすれば余りに多い実績故に割愛するが、彼のお陰でこの街のこの橋の下に居られると言っても過言では無いだろう。情報交換食事の融通その他諸々を手配してくれるのが彼だ。その彼がわざわざ足を運び朗らかに手を振る。それがどれだけ男等にとって歓喜すべき事実かは想像に難くない。
「早速本題なんですが、なんとですね、駅の北側なので少し遠いし何も無い所ではあるんですが、貴方達専用の住居を手配する事が出来ました。築年数だったり設備自体はそこそこ古いのであれですけど、キッチンもお風呂も付いてるちゃんとした家です。ご希望の方はそこに住む事が出来ます! っていうのを詳細に記したのがこちらです」
 黒革の鞄からスラリと要綱を取り出し、男に見せた。男はそれを手に取り暫し眺め、言った。
「ちょっと分かんないとこがあんだけども……これ、何て読むんだ?」
「これは管轄(かんかつ)ですね。要は役場が家の所有権を持ってるので従って下さいね、違反があったり犯罪を犯すとすぐ罰せられますよって事がこのページには書いてあります。住むにあたって役場からの条件は5枚目に記載があります。また分からなければ何時でも聞いてください。あ、でもお電話とか持ってらっしゃらないかと思いますので、今日の午後4時と明日朝同じ時間に伺います。これからまた別の所に行っての説明と、再度現地の視察に行きますので悪しからず。何せ今朝急に決まったものですから」
 口早に説明し彼は去って行った。残された仲間は不思議がりながらも心底喜んだ。この冬を、どんな病気に掛かろうとも行ける病院が無いこの街を、吹けば飛ぶような頼りない襤褸と段ボールの山を、漸く脱せられるのだから。初老の男は溢れる涙を抑えられずにいる。隣では小躍りをしている。
 気持ちは十二分に察せられる。本当は男も喜びたい所だった。
 勿論嬉しくない訳では無い。対岸で死んだ者を思えば近い将来自分がそうなってもおかしくはないからで、一刻も早くこの場を出るべきである。名残惜しさや愛着、戸惑いに不安は多いにある。役場からの条件というのも生活を立て直す為に書かれた物と言うよりは、家に拘束し、【市民】に安全と清潔を齎す物である。中には彼なりの精一杯の交渉があったのだろうと察する条件もあった。だから好意に甘えて転居するのはやぶさかではない。
 しかし。しかしそう簡単に出来ない理由が、男の寝床にあった。
 あのシュトーレンである。
 偶然にしては余りにタイミングが良過ぎはしないか。俺が願ってからすぐに、可能そうな範囲で願いが叶っている気がする。それも2つもだ。あの白い老人……何と言っていたか。
「……願いを込めながら」
「あ? なんか言ったか?」
「いや、大丈夫だ。良いんじゃないか、これ断ったらこの先家に住むなんて夢のまた夢になっちまうしな」
「そうだな、そうだそうだ」
 彼の再訪を待たずに役場へと出向き、この日の内に新居へと移動した。

 新居は確かに駅の北側にあり人気が少なく、男等を囲っておくには申し分ない立地である。思惑に気付いているのは男だけだったが、実際問題として思惑にはまらなければならない状況であるのに変わりは無く、家に入る他取るべき道は無かった。
 家は予想以上に新しい造りをしており、公営住宅を除けば男がこれまでに住んだどの家よりも奇麗と言えた。間取りも四人が住むには余りある広さを有している。あの橋の下からすれば十人は住んでも余りある。小さいながらに庭もあるなど信じられない。仲間もまた同じ胸中だろう。驚きに満ち満ちた表情で家中を見て回り役場の彼に感謝を述べ、そして男等は屋根のある素晴らしい住居を手にした。
 まず男等がしたのは風呂に入る事だった。気の利いた物は用意されていなかったが、長年のホームレス生活で染み付いた垢や汚れを落とすには十分過ぎる代物であり、天にも昇る気持ち良さであった。普段は公園に備え付けてある水道を使用し夜中に体を洗うか、
 若輩として最後に入浴した男は、しかし全身を包み込む温かさの中にあって別の事を考えていた。
 あのシュトーレンをどう扱うか。本当に願いが叶うのならば次は何を願うべきか。そもそもが偶然の産物であり自分の勘違いなのかどうか。
 永らく果てしない夢物語だと思われていた【食】と【住】がたかだか2日で叶い、まだあと数回の夢物語を叶えられる可能性がある。当人がそれに気付いているかは別として、ある種の欲が男の脳内を侵食し始めていた。
 願えば叶う。
 その事実が男の頭の中で幾度と無く反芻され、刻み込まれていく。

 湯船から上がった男は思わず溜息を吐いた。
 何故ならそこにあったのは、昨日と変わらず悪臭を放つ自身の服であり、それ以外に着替えが無かったからである。 
 ご飯があり家があるが、まだ自分達が人の体を成していないのだとまざまざと見せ付けられてしまったような、そんな気分になったのである。仲間も同様の気持ちだろう。
 ーーーー明日の願いが決まった。
 夜はまだ長いが新しい住居への移動と気疲れ、湯船の温かみにより急激に眠気が襲い、男達は眠りについた。
 この家が夢でないと信じながら。
 あるいは、更なる夢が叶うと信じながら。

第三夜【欲】

 自分の叫び声で目が覚める事は初めてであった。バタバタと仲間がやって来て大丈夫かと口にしたが、落ち着いたのは彼等のお陰ではなく、目の前に広がる綺麗なカーテンに差す朝日と雨風を凌ぐ壁、それに無機質でない天井のお陰だった。このシーツの綺麗さや壁の有難みを知ってしまえば最後、もうあの橋の下には戻れない。是が非でも手放せなくなってしまったのである。
 呼吸を整え階下に向かうと既に三人が集まっており、加えて例の役場の彼が来ていた。今後の事について説明をしてくれるのだと言う。
 大まかには昨日渡された資料と同じであったが、生活保護とも違う所が幾つかあった。それは金銭に関する項目である。
「今まで通りに空き缶を収集して換金するのは今後ご法度になります。その他公園での水浴び等も禁止です。そういった行為を見かけた場合は一回目は警告、二回目でアウトということで、この家から退去してもらいますのでご注意ください。しかしそれでは収入が全くない状態になってしまい、今までよりもより困窮してしまいますので、代替案としてですが、ボランティア活動に参加してもらおうかと思っています。内容は多岐に渡りますが、主に清掃や道路整備だとか、ゆくゆく認められていけば登下校の見守りだとか、そういう事をして貰いたいです。正直な所その段階に行くにはかなりの実績が必要ですし、皆さんの努力が必要不可欠です。社会に戻りたい、貢献したい。そういう気持ちが必要です。そしてその対価として、規定の金銭をお支払いします。恐らく銀行口座をお持ちでないかと思いますので、私か役場の誰か、あるいは現場にいる誰かからお渡しします。金額についてはここの家賃でしたり光熱費でしたりを役場が負担しているものですから、最低賃金よりも低い物にはなりますが」
 様々説明されたがどれもこれも願ったり叶ったりの条件でしかない。もう仲間はそれだけで歓喜の涙を流してさえいる。男もそうしたい所だったが、一本の電話がそれを止めた。
「はいもしもしお疲れ様です……はい……はい? ええ、いらっしゃいますけど……ええ、はい、ええ……え? ご親戚の方が、はあ……ええ……えっ? ちょっと確認してすぐ折り返します」
 困惑した様子の彼が男を見て言った。
「以前養子に入られてましたか?」
「ええ、十代の頃ですが」
「そうですか。その件で少しお話がありまして、あちらの部屋でお聞きしてもよろしいですか」
 奥の部屋に移動し扉を閉めると、神妙な面持ちで男に問うた。
「今でもお二人の事を覚えていらっしゃいますか?」
「そうですね、まあ数少ない優しい人でしたよ。人格者というか」
「成程……実は先程の電話がそのご夫婦に関しての電話でして、お亡くなりになられたそうです」
 唐突過ぎる報告に男は言葉を失った。もう長い事連絡を取っていないとは言えども、育ての親とも言うべき人物が死んだと聞くのは衝撃が大きい。男の人生において唯一心から親切にされ、愛を持って接してくれた人物だと言える。その夫婦の死因は交通事故と言われ、巻き込み事故だったという。
 だが、その衝撃を吹き飛ばす程の衝撃が男を待っていた。
「そのご夫婦があなた宛てに遺産を残してくださっていたようで」
「い、遺産……ですか」
「具体的な内容は聞いていませんが、遺書が残っていたそうです。原本をお渡しする手続き等ありますので、これから私と一緒に役場まで同行してもらえますか?」

 役場に付くと弁護士が待つ部屋に通され、そこで淡々と説明を受ける男。内容を覚えているかは定かではない。
 夫婦の死亡も遺産の譲り先が男になっていた事も、男の事を心配し後悔している旨もあったが頭の片隅に置いてしまうしかない情報が遺書に書いてあった。
【高輪にある土地を譲る】
 会社が倒産し転居した後に再就職、その会社の業績が伸びたのを機に購入した様だったが、この土地が男の人生を更に大きく変える事となる。
「高輪って東京の高輪?」
「その様です。こちらの資料をご覧ください。10年程前ご夫婦が購入された土地ですが、現在はご夫婦が住まれていた一軒屋が建っています。土地の広さが約80平米。坪で言えば24坪になります」
 土方だった経験からパッと広さを想像し、当時流行りだった建築様式で思い浮かべる男。実際には高級住宅であり想像したものとは違うが、その建屋がまた土地の価値を上げた。
「高輪も箇所箇所で違いますが、昨年の平均が凡そ坪単価360万。単純計算で今相続された土地は8640万円の価値がある事になります」
 開いた口が塞がらないとは正にこの事だろう。たった一日で今まで稼いだ額の何倍もの金を手に入れたのである。
 結論から言えばこの土地と家屋を売却を決めた訳だが、相続税や所得税などを考慮したとしても、男の年齢からすれば質素な生活を送ればもう働かずに済む金額だった。すぐさま銀行口座を作り、入金された。勿論それだけの金を持てばあの家に住む必要性は無くなるし、自立して生きていく事は本来難しくない。故に
 ホームレスから生活が一変する。
 普通に考えれば事務手続きも銀行への振り込みもかなりの時間が掛かるはずである。それがお役所仕事だと誰もが知っている。それが何の待ち時間も無く事が進んでしまった。
 極めつけは大金である。今朝、起床してすぐに
「使いきれないぐらいの金が欲しい」
 と願いながらシュトーレンを一切れ頬張っていたのだが、それがこんな形で叶うとは夢にも思わなかったのだ。何度通帳を確認しても八桁の数字が一番上に並んでおり、まごう事無き現実であると証明してくれている。
 男は手が震えているのを見て恐怖を感じているのだと思ったが、実の所そうではなく、歓喜に打ち震えていた。今目の前に鏡があれば男の口角が上がっているのを確認出来ただろう。
 男は通帳を大事に懐にしまうと、夜の闇へと消えた。

第四夜【隣人】

 男がいなくなった夜、仲間達は男が夜になっても帰宅しない事を不思議に思っていた。普段であれば帰って共に夕飯をつつき、中身の無い、あるいは途方もない空き缶収集の進展を話込んだりしている時間だった。こんな事は今まで初めてではあるが、寝床を構えられたという安心から帰宅が遅くなってしまっている可能性もある。あれやこれや並び立てても男が帰って来る訳も無く、仕方なく眠りについたのだが、翌朝になっても男は帰ってきていなかった。どこかで事故にでもあったのだろうか。若者に絡まれて暴力を振るわれたりしたのかもしれない。仲間は役場の彼にあれから彼を見ていないかと聞きに行くことにした。
 彼は年末の業務に忙殺されており、話が出来たのは昼を過ぎてからであった。そして男に昨日起きた事を聞いたのである。具体的な遺書の内容と金額は教えられるものではないが、兎に角、家の条件から外れたのだと知らされた。
 男が大金を手にした。
「どっか消えちまったんじゃねえか」
「いやでも、あいつがそんな事するわけねえ。一言くらい言って出ていくもんだ」
「いや、ヤクザに絡まれて連れてかれたんだ」
 口口に想像を口走るが本人がいなければ何の意味も無い。掛け合ってくれるか分からないが、警察に失踪届を出しに行くこととなった。

 昨日の夜から男は近くのビジネスホテルに泊まっていた。地域の中でも安いホテルだったが、男は一度たりとも泊まった事は無く、ただ仕事で軒先の花壇の基礎工事をしただけだった。そのまま泊まろうとしたがフロントマンに静止され、道中の安い衣料販店に出向き服を一通り買い込んだ。そして備え付けのトイレで着替えると、元着ていた服をゴミ箱に捨てた。
 それは男が無意識的にやった行為だが、蛹から羽化する昆虫の様な意味合いがあったのだ。
 知らない人が見れば、髭を剃り髪を軽く整えただけで男は最早別人にしか見えない変貌ぶり。鏡を前にした男もそう思っていた。
 男は風呂場から出るとベッドの上に置かれた金とシュトーレンを見た。
 このシュトーレンは間違いなく本物、言わば神のシュトーレンだ。願いが叶う奇跡の菓子。そのおかげで今何千万と手にしたのだ。あの老人には感謝してもしきれない。仲間の言葉を貰うなら
「生きてりゃこんな嬉しい事もある」
 ベッドの上に転がる札束。上には上がいるが三角形の底辺にいた男からすれば大金も大金。夫婦や仲間の事も忘れ何に使うかしか男の頭には無かった。
 男は自分の体をまじまじと見、そして一つ思いついた。
「女を呼ぼう」
 男はこれまでに女性と付き合った経験も無ければ、きちんと女性を抱いた事が無かった。一度職場の先輩の計らいで部屋に譲を呼んでもらった時がある。その時は初めてで緊張と興奮が高まり過ぎた結果、1分と経たずに達してしまい、恥ずかしさゆえに以降呼ばなかった。
 しかし今は金がある。そう……金ならあるのだ。
 男は早速譲を呼んだ。 

「……天国ってのはこの事を言うんだろうな」
「何急に。そんなに良かった? あなたロマンチストなの? 可愛い」
 ベッドの上で裸になり、横になった男はこんな素晴らしい体験があったのかと、一時間前からの情事をつい思い返していた。この譲の手練手管の尽くし方が上手かったのはあるが、男は長年行為に及おらず土方で培われた体力によって納め切ったのである。
「なあ、あと一回」
「何言ってるの、もう時間だし、この後予定があるの。また呼んでくれたらサービスしてあげてもいいわよ」
 女は軽く頬にキスをしてホテルを後にした。残された男は未だ悶々と振り返り、まだしたりないと思っていた。店に行く方が手っ取り早いかもしれないが、市街地まで行かねばそういった店が無い。男はまた電話を掛けた。
 そして朝になるまで譲を呼び続けたのである。
 目覚めたのはチェックアウト直前で、もうこの時期らしい寒空の色がカーテンの隙間から顔を覗かせていた。男は大きく伸びをし、カーテンを勢いよく開くと外の景色を眺めた。
 充足感が男を満たしていた。衣食住に困らず、金があり、女を買え、まだシュトーレンも数枚残っている。男は服を着てバッグに金とシュトーレンを詰め込むとホテルを出て、市街地を目指した。
 目的は女を抱く事だった。
「おーい!」
 遠くから男を呼び止めたのは仲間の一人だ。悪い足を引きずるように男の方へ駆けて来る。
 市街地に行くにはバスに乗るか、歩くには遠い距離にある市電に乗る必要があり、仲間の一人はその市電の駅付近を捜索していた。足が悪いからすぐに休めるのもあるが、市街地に乗り継ぎ無しで行けるのは市電のみだからだ。
 男は仲間が歩く様を見て何故か妙な不快感を覚えた。
「いやぁ随分探したぞ、一体全体どこにいたんだ心配したんだぞ。ええ? まあ元気そうで何よりだが……ってその服どうした? 買ったのか」
 男は返事をせず繫々と仲間を見、自分の首から下を見て、不快感の原因が目の前にいる仲間の風体にあるのだと気付いた。折角手に入れた筈の家にあり、未だ悪臭漂う服を着て何食わぬ顔で外を歩いている。いや、最悪服装はいいとしよう。手に持っているビニールの中には空き缶が山の様に入っており、それがボランティアで回収した缶でないのは一目瞭然だった。
 なんてみずぼらしいのだろうか。
 自分もずっと他人からこう見えていて、今後ずっとこのままだったのだろうか。想像すると鳥肌が立つほど恐ろしい。
「まあそこで買いましたよ。俺はこれから街に出ます。恐らく帰って来る事は無いでしょう。今までお世話になりました。少ないですけど、これ」
 男はバッグから適当に金を掴むと仲間に渡して駅に向かう。
 後ろから何度も声を掛けられても無視を決め込み、丁度やって来た電車に乗り込んだ。金の無い仲間は改札前で立ち往生し大声で男を呼ぶが、電車はその声を掻き消して発車する。
 男の頭には金と女、願いを何にするかしか残っていなかった。

第五夜【愛】

 男は市街地に着くとまず腹ごしらえをしようと、昼間から開いている居酒屋に入った。昼間から飲む日もあったが、それはワンカップをベンチに座って飲むだけである。まずは焼き鳥を数本とビール、普段食べられない牡蠣も注文した。ジョッキを一気に煽り、染み渡るアルコールに身を震わせる。
 貧困や世間からの視線を誤魔化す為に飲む酒ではなく、普通に嗜好品として嗜む酒がこんなに美味いとは。運ばれてきたお通しをつまみながら自分が人に昇華したのだと悦に浸っていると、一人の女が入って来た。
 女は市街地に住むどこにでもいる様な成りの女だったが、男はその顔に甚く興味を惹かれた。顔の好みもあるが学生の頃に好きだった女に似ていた。男はどうしてもその女を抱きたいと思った。金を積めばホテルに連れ込めるだろうか。しかし誘い方が分からない。
 考えあぐねていると女の後ろから若い男が入ってきて、横に座り楽し気に話し始めた。若い男は身なりも顔も男よりも良く話も盛り上がっているようで、男が持っていない物を持っているように思えた。
 嫉妬心が男を支配した。
 男は早々に会計を済ませ歓楽街へと行き急ぐ。日中開いている店はそう多くは無い。手当たり次第に店を訪ね歩き、空いている譲がいればすぐに事に及んだ。
 男は数件梯子して、やはり金を出せば顔の良い譲が出、テクニックはさることながら店の質自体も良くなるのだと学習した。
 そんな何の役にも立たない経験則がより男を性に走らせた。自分でも止められない疼きだった。
 酒を体に入れ手当り次第に馳走を腹につめ、そして女を貪る。その繰り返し。男はどうしようもなく女を求めた。

 夜も更け、ラブホテルに今日最後になるであろう女を呼んでいた。部屋を訪ねてきた女は初めに呼んだ女だった。
「またすぐ呼んでくれるなんてね、びっくりしちゃった」
「まぁ……」
 どれだけ金を使って女を買い、腹を満たしてもまだ何かが足りないと感じていた男は、初めに抱いた女にだけは満ち足りた感覚があったのを思い出した。今日共に寝られればさぞ満たされるに違いないと女を呼んだのだ。
 それはほぼ初めての行為が上手くいった事と女の肉付き、柔和な話し方が大きな要因だった訳だが、男はそこに文字通りの温かみを見出したのである。
 会話もそこそこにゆったりとした行為を終え、帰ろうとする女を引き止め言った。
「今日はこのままここに居てくれ」
 女は困惑した。
「いやでも時間が」
「金ならある」
 机の上に金を出す男。より困惑を誘ったが、しかし女も金の魔力には勝てそうに無かった。
「じゃあ……」
 女は金をブランド物のバッグに入れ、ベッドに戻った。
「ねぇそのお金どうしたの? 社長さんか何かしてるの?」
「いや、そういうのじゃないんだこれは」
「じゃあいいとこのおぼっちゃまとか?」
「いや」
「んー、宝くじ?」
「んん……いや、まぁでもそんなものか」
「へぇ! あなた運が良いのね! 羨ましいわ」
 女は男の腕を指で撫でた。良い金蔓になりそうだという思いで撫でたが、男は女性に不慣れであり、褒め言葉をそのまま受け取っていた。
「でもどうして私なんかにそんな使ってくれるの? 私より良い女なんかその辺に幾らでもいるじゃない」
「……君が良かったんだよ」
「……そう」
 女は顔を少し赤らめた。その言葉がお世辞で無いと直感で分かったからだ。
「本当に一緒に寝るだけで良いの? 色々してあげられるのに」
「いいんだ。このままで……君は……どうしてこの仕事をしているんだ」
「ちょっと。そういうのは聞かない方が女の子にはモテるわよ。まぁ……別に大した理由じゃないからいいんだけど。あたしね、夢があるの」
「夢?」
「そう」
「あたし女優になるのが夢なの」
「女優?」
 女は天井を見つめ遠い何処かに思い馳せる。
 男はその横顔を見つめた。今日抱いた女達と比べて美人ではない。テクニックもそこそこだったと思う。しかし、女の今見せているひたむきな顔に新たな欲求が生まれた。
 この女の傍に居られれば、幸せなのかもしれない。
 男は徐に立ち上がりバッグからシュトーレンを取り出し、一切れ齧った。
「どうしたの突然。それなぁに?」
 女が寄り添ってきて不思議そうに菓子を眺めた。
「あ、何だっけ、それ。えっとーシュトーレン?」
「そう。そうなんだけど」
「一切れ頂戴」
「駄目だ、これはあげられない」
「何よケチね。お金はあげられてもお菓子はあげられないって言うの? 変な人」
 尤もだが男にこのシュトーレン以上に大事な物など無い。
「これは……言っても信じられないかもしれないけども、願いが叶うシュトーレンなんだ」
「願いが叶う? サンタさんにでも貰ったの?」
「分からない。でも確かに叶うんだ。そのお金だってこれを食べたから叶ったんだよ」
「そんな事ある訳ないじゃない。変な人って思われるわよ」
「まぁ信じなくてもいいさ」
 男はシュトーレンをバッグにしまったが、さっきの願いは早まり過ぎたかもしれないと、既に後悔し始めていた。別に願いが叶うなら他の女でも良かったし、他の願いでも良かったはずだ。何故こんな事に貴重な1枚を使ってしまったのだろう。
 男は時計を見て日付が変わり次第、その願いを断る願いを叶えなければと思った。

 だが、ベッドで女と寝転ぶ内に微睡み、そして眠り込んでしまった。

第六夜【禁断の果実】

 目覚めると横に女が気持ち良さそうに眠っていた。誰かと横になって眠るのは初めてで、何故か女の事をとても愛おしく感じている。髪を撫でると
「おはよう」
 と目をつぶったまま女は朝の挨拶をした。男も
「おはよう」
 と返した。それは在り来りな挨拶だったが、男にはそれこそが必要な物なのだと思えた。
 歯を磨き、身支度を整えると女も既に身支度を整え終わっており帰ろうとしているのが目に入った。名残惜しさが男の胸を打ち、思わず
「俺と暮らしてくれないか」
 女に告白していた。自分でも驚いたが、女はそれ以上に驚いている。はったりではなく本気なのだと、昨夜と同じ様に直感で分かったからだ。この男ならば幸せにしてくれるのかもしれない。何故か女はそういう気持ちが溢れ出て止められなかった。しかし女は断った。
「駄目なのよ。私そんな良い女じゃないし、昨日は女優になるなんて言ったけど、でも私なんかがって思う自分もいて。ううん、なりたいのは本気なの。本当になりたいの。でもその為にこんな仕事して時間は削れちゃうし、正直心がボロボロになってってるのが分かるの。だからあと少しだけお金が貯まったら実家に戻ろうかと思ってて……家出みたく飛び出したから帰らせてくれるか分かんないけど……でもどうしようもないから」
「お金なら出す」
「駄目よ。私なんかに捨てたら。求められて嬉しかったけど、でも」
「君に使いたいんだ。これまでの10数年俺はホームレスだった。空き缶を拾ったりゴミ漁りながら生活してた。でも金が手に入って全てが変わったんだ。やっと人になれた気がして」
「だったら余計自分に使わなきゃ。これからあなたの人生が始まるんでしょ? あたしなんかに使わずもっと有意義な物に使って」
「違う、君と一緒に居たいんだ」
 男は女を愛してしまっていた。女もまた男を愛してしまっていた。始まりはどうあれ2人が大まかに同じ方向を向いている。

 しかし、歪みの足音が忍びよっているのに男は気づいていなかった。

コンコン 

 ノックの音が室内に響いた。チェックアウトの時間だと従業員が言いに来たのだろうか。もう一度ノックが響き、男はドアを開いた。
 するとそこには数人の男達が立っていて、何か言う前に男の胸ぐらを掴みながらドカドカと部屋に押し入った。
 1人が女に
「こいつか?」
 と聞き、女は小さく頷いた。それを見て胸ぐらを掴んでいる男が
「おい、金はどこにあんだ? 痛ぇ目に逢いたくなかったらさっさと出しな」
 そう言った。男達はこの辺りで幅をきかせていたヤクザ紛いのグループであり、女はそのグループに半ば強制的に働かされていたのだった。
「昨日こいつから電話あってよ、何千万って持ってるって聞いてよ。ちょっと分けてくんねぇかなと思って来た訳。分かる?」
 男は女を見た。震えているのがわかる。恐らく男が風呂に入っている間にバッグを漁り、通帳の中を見たのだろう。それで昨日の内に電話してここに至るのか。
「ごめんなさい」
 とか細く女が鳴いた。それを合図に男は四方から暴行を加えられ、暗証番号を吐くよう迫られた。指を折られたりはしなかったが、顔は膨れ、体中の隅から隅まで青あざがこびり付いている。
 暗証番号を言うと最初胸ぐらを掴んでいた男が
「早く吐いちまえばこんな痛い思いせずに済んだのに馬鹿だな」
 と、鳩尾目掛け蹴りを放ち、そして女を連れ立ち去って行った。グルなのか脅迫されているのか、ホテルのスタッフは現れる事も通報することも無い。
 男は仰向けになり天井を仰いだ。去年建った建物らしく天井は綺麗で、華美な装飾が壁も含めて一面に施してある。
 大きく深呼吸し、男は立ち上がり、バッグを改めた。取られたのは通帳だけだった様で、シュトーレンは変わらず良い香りを漂わせて底に眠っていた。
 男はシュトーレンを銀紙から出し1口齧った。
 本来するはずの芳醇な香りは無く、血の味が口に広がって喉を通り、体を巡った。
 冷蔵庫から水を取り出し一息に飲み干して、男はホテルを後にした。

 街は笑い声がそこら中から聞こえ、店の前を通れば香ばしい肉の匂いがクリスマスソングを運んでくる。
 フラフラと歩く男は酔っている様にしか見えないのか、誰も気に止める人はいない。
 陽は殆ど落ちており、鮮やかなイルミネーションが街を彩っている。
 ふと、赤信号で立ち止まり交差点の先を見ると、つい先程まで自分を痛ぶっていた男達と、助手席に座り俯く女が見えた。男に気づいている様子は無く店を見ながら話し込んでおり、次なる標的の店にあらぬいちゃもんでも付けようかと画策しているのかもしれなかった。
 今更警察に行っても金が返ってくるとは思えない。
「ーーーー」
 男のすぐ真横に1台のタクシーが止まった。そのタクシーは少し高級そうな見た目で、運転手も帽子にネクタイ、ピンなどをしっかりとした、執事風の出で立ちだった。その運転手は運転席を降りて近くのバーに入っていった。そこの客が呼んだのかどうかは分からない。
 男はそのタクシーの運転席に乗り込んだ。
 車を操縦したのは何時だったか、確か20歳くらいの時に先輩が面白がって運転させたのが最初で最後だった。
 アクセルを探しゆっくり踏むと、グゥーーーンとエンジンが雄叫びを上げた。一度アクセルから足を離し、クラッチを踏み、ギアを3速に変える。そしてアクセルを踏み込むがサイドブレーキに阻まれ、ガクンガクンと首を振られた。その音に気付いたのか、運転手が血相を変えて店から飛び出し、ウィンドウを叩きながら出るように叫んでいる。
 男はサイドブレーキを外さねばならないのだと思い出して、それを無視しながらサイドブレーキを解除し、アクセルを踏み込んだ。
 エンストしなかったのは偶然か神のイタズラか。
 車は瞬く間にスピードを上げ、交差点の向かいで停車する1台の乗用車目掛けて突っ込んだのだ。

 煙を上げる2台の車。1台は空で、1台には頭から血を流して倒れている男達がいた。
 野次馬が集まるその真ん中を突っ切り、路地裏へと駆ける2つの影があった。その影は群がる民衆と陽気なクリスマスソングに掻き消され、夜の闇へと消えていった。

第七夜【終わり】

 曇りガラスがネオンと街灯、高層ビル群の明かりを乱反射させ、イルミネーションの様に光り輝いている。それを爛々とした目でじっと眺め続けている女の横顔をまた、男はじっと眺め続けていた。
 残り数本となった高速バスに飛び乗った2人は、着の身着のまま東京を目指していた。
 失神する輩の懐から通帳を抜き取り、そのまますぐ金を下ろして駅に向かい、1番早い便に飛び乗ったのだ。男はそもそもホームレスで足取りも着きにくいし、女も似た状況故に見つかる事はまず無いだろう。あの男達は地元で幅を効かせる以外に生きる道が無いからだ。
 女は外を見つめたまま呟いた。
「本当に東京に行けるのね……夢みたい」
 昨日の夜に見たキラキラとした目をしている。まるで子供のようだ。
「夢じゃない。これから君は君の夢を叶えるんだよ」
「ふふっ、変なの」
 東京までの5時間強、話す時間はたっぷりあった。2人は自分達がこれまで送ってきた人生を語り合い、空白の時間を埋め合わせていく。
「大変だったんだ」
「まぁあたしはこんな性格だからまだいいけど、妹はね」
 女には妹がいるが、病気で長い間入院を余儀なくされているという。その治療費を稼ぐ為にも仕方なくあの仕事を始め、あの男等にこき使われる様になってしまったのだった。
 男は女の妹の治療費を出すと言った。勿論女は断ったが、男はそれを押し切り、東京に着いてから金を振り込むと約束した。
「でも本当にどうしてそんなに早くお金が手に入ったの? 育ての親が亡くなったのは残念だと思うけど、普通もっと時間がかかるものじゃない?」
「分からない。いや、多分、これのおかげだよ」
 男はバッグからシュトーレンを取り出した。
「これのおかげでお金が貰えたし、君とも出会えた」
 言って女を見ると、困惑した顔をしている。それもそうだろう、信じられるわけが無い。
「嘘みたいだけど本当の事なんだ」
「……あのね」
 女は真剣な表情になり、男の目を真正面から見た。
「あたしにそのシュトーレンは見えてないの」
「え……え? 見えてない?」
「ごめんなさい、早く言うべきだったのかもしれないけど、あなたが初め取り出した時もそうだし、お風呂に入っている時も今も見えてないのよ」
 女は男の手を取った。それは男がシュトーレンを持っていると言った方の手だった。
 絶句し自分の手と女を交互に見比べ、バッグの中身を足の上に放り出すがどこにもシュトーレンは見当たらない。
「え!? いや、そんな、でも今確かに手に持って……ええ? 君が取ったのか?」
「ちょっと何言ってるの? あたしが取る訳ないじゃない。そもそも見えないし何を言ってるのか分からなかったんだから。あなたさっき自分の手に持ってたと思ってたんでしょうけど、本当に何も持ってなかったのよ」
 男は訳が分からなかった。あの日からずっと食べてきたはずの物が丸っきり空想の産物だったのか。あの香りも柔らかな感触も芳醇な味わいも全てが幻? 俄に信じられない。
 だが、どこを探してもシュトーレンは見つからなかった。最早その残り香すら感じられない。
 まさか最初から……。
「でもそれがあったとしても無かったとしても、あなたに会えたじゃない。あなたはあたしを助ける勇気があったじゃない。普通出来る事じゃないわ。あんな暴力とセックスと金しか頭に無い人達と違って……あなたには勇気があった。心から愛を教えてくれた。それじゃ駄目かしら」
 男は空になった手を見た。違う。あれはシュトーレンがあったお陰なんだ。金も君も男達に立ち向かったのも全部シュトーレンのおかげなんだ。
 そう言いたかったが、女の真剣な眼差しがそれを阻んだ。確かに女の言うようにそれはどちらでも良いのかもしれなかった。
 あの芳醇なシュトーレンの味を、男はもう思い出せなくなっていた。
「いや、それでいい。それがいいのかもしれない」

 東京の空はまだ暗く、朝日が辛うじて空を白く光らせ、烏や名前の分からない鳥が空を飛んでいる。
「いつかあなたのお仲間さんに会わせてね。謝って、いっぱい美味しい物食べてもらいましょう」
 女は化粧を直してくると言い近くの公衆トイレへと入っていった。
 そのすぐ横にベンチがあり、男は空を見上げて女が出てくるのを待っていた。
 本当にシュトーレンは自分の妄想だったのか。手を掲げてじっと見るが、やはりどこにもシュトーレンは無い。重みも思い出せない。少しずつ記憶から姿形が消えていく。
  ふと、視界の端に誰かが立っているのが見えた。
 上体を起こして見ると、一人の老人がこちらを見て立っていた。
 髪も眉も髭も真っ白で綺麗に整えられている。
 皺1つ無い丸襟の白シャツに青いボタン、ズボンもまた白であり、鼈甲柄の尖った革靴を履いていた。
 見知った顔だった。
「あんた……」
「願いが見つかったようで何より。もう必要無いと思ってあのシュトーレンは消した。いずれお前の記憶からも消えていくだろう」
「……そうか」
 この老人が何者であるか、神か人か妖の類か、それはどうでも良い事なのかもしれない。
「1つ聞かせてくれ」
「1つだけだぞ」
「どうして俺なんだ。こんな何の取り柄も無い俺にやって良かったのか? もっと色々いたんじゃないのか」
 老人は髭を触りながら言う。
「それじゃあ面白くない。お前の様に何も無い物が最終的に何に使うのか観るのが、私達の楽しみでもあり、賭けでもある」
「何だ、俺は賭けに使われたのか。全く、これだから神ってやつは」
「はは。まぁその副産物としてお前の親代わりを死なせたのはすまないとは思うがな」
「それは正直相当腹立たしいが」
「ああ、だからすまないとは思っている。実際親代わりは間もなく死ぬ運命ではあったから、少しだけ早める事になってしまったが。まぁお詫びと言ってはなんだが、私からもう1つだけプレゼントしてやろう」
「……まさか生き返らせてくれるのか」
 老人は高らかに笑った。
「いやいや、それはどうやっても覆せない。だからその他の物で補填してやる。お前が私の事を忘れ、人生に戻った時に分かるだろう」
「今教えてくれないのか」
「それは楽しくないだろう。ま、あの女としっかり愛を育み、よく話せ」
 そして老人は瞬きの間に消えた。そのすぐ入れ違いで女が支度を終わらせトイレを出て、男の横に座った。
「誰かいたの?」
「……いや、ただの独り言だよ。行こうか」
「そうね。まずは新居を探しましょう……あたし、頑張るから」
「ああ、俺も頑張るよ」
「まずは身分証からかしら」
「言ってくれるなよ」
 
 色とりどりのネオンを朝日の白い光が霞ませ、ビルの明かりと未だ深い黒を残す路地裏へと男と女は消えて行った。
 空には瑠璃色の体毛の美しい鳥が一羽、気持ち良さそうにどこか遠くへと飛んでいった。

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