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異形の匣庭 第二部⑩-1【別のモノ共】

 鋭いナイフの先端からポタポタと水滴が落ち、黒い岩石で出来た床をさらに黒黒しく染めていく。今まさに誰かを突き刺し殺めて、その場に立っていると言わんばかりの量の血だ。彼女が何者で幽霊か付喪神かあるいはその他に分類されるのかはどうでもいい。明らかなのは彼女が僕を見て生気の無い顔に恍惚な表情を浮かべながら、棚の間をゆっくりとこちらに歩いて来るという事だ。
 棚と棚の間隔は彼女は通れても服が引っかかるはずだけれど、人でない上に靄になれるなら狭さなんてあってないようなものか……なんて呑気に考えている暇なんてない。どうにか逃げる方法を考えなきゃ。
 しかし、出口は彼女のいる方向で恐らくあの鉄の扉は閉まっている、となると後は更に奥に進むしかないのか。でも奥に何があるか分からないし、どこか外に繋がっているとしても、万が一にでも僕がそこに辿り着ける訳がない。いや、でも……
 逃げるしかないとパっと奥の部屋を照らすと
「ひぃっ!」
 巨大なガラスケースに人型の何かが三体詰め込まれ、それらが僕の方を見ていた。いや、向いているのか。ガラスの反射で全身はあまり見えないけれど、エジプトのミイラを彷彿とさせる褪せた布が身体を覆い、更に上から褪せた金属質の紐が不規則に巻かれているのが分かった。
 そいつらのすぐ左には大小合わせて十数個の瓶があり、中には鳴海に連れられて入った山にいた蠢くモノが入っていた。蛞蝓に似ているかと言われればそれは遠目に見た時の話であって、どちらかと言えばゲジゲジなのではないかと思う。腐った無数の指が折り重なって蠢き、欠けた爪がガラスに当たって耳障りな高音を奏でている。
「ふふふふふふふ」
 背後から彼女が迫って来る。とても奇麗な声で饒舌に英語を振るっているが、リスニング力の低い僕には一文字も理解出来ない。とにかく手に持ったナイフで僕をどうにかしたいのは伝わって来る。
 見た目の危険性を取るならば奥に進めないが、今重要なのはそれらが『動けるかどうか』。人型も瓶の蛞蝓も動けなさそうだし、古時計も天井に吊り下げられた机も動く事はないはずだ。手足が生えて来なければ。
「うわっ! わわわっ!」
 尻餅をどうにか地面から剥がした瞬間に、右足があった場所にナイフが突き刺さった。妖艶な笑みを浮かべる彼女が体勢を立て直すのを待たずに、僕は奥の部屋へと四つん這いになって転がり込んだ。僕が入って来たのに反応して人型と蛞蝓が激しくガラスを叩き、壁の陰に隠れて見えていなかった棒状で巨大な藁の塊が、壁と胴部分を繋いでいる鎖を大きく揺らした。藁は最大限こちらまで近付くと縦に割け始め、その隙間から鋸歯が不満そうに噛み鳴らした。
 それらの横を走り抜け奥へ奥へと進んでいくけれど、右も左もこの世の物とは思えない形の何かがいる。
 異形だらけだ──。
 どうしてこんなに異質な物ばかりがここに集まって……セツさんが集めている……? 何故?  
「Let's play tag~.I'm it,I'm it.RunRunRun~」
 彼女の歌と何かの叫び声が洞窟内で反響して、前からも後ろからもぐわんぐわんと平衡感覚を乱してくる。気のせいかもしれないけれど耳鳴りもするし、内臓がひっくり返ったように吐き気が止まらない。地面の凹凸に足を取られる度にせり上がって来る胃液を押し戻さなければいけないし、心なしか息苦しさが増している気がする。しかも一つ、二つと部屋を通って行くのにまだ延々と奥に洞窟が続いていて、迷路を彷彿とさせられてそれもまた僕の心を揺らす。
 結局あの子も異形側の存在だった。こんな洞窟の奥深くまで誘い込んで、僕を殺すつもりだったんだ。わざわざあの迷路から抜け出させたのも、ここでしか殺せないからに決まっている。だってこんなにも気味の悪い物が揃っていて僕に悪意を向けているのだから。
「なんで…………あっ」
 突然右足に痛みが走り、よろけて地面の突起に足を取られ盛大に転がった。僕は勢いを殺す事が出来ずに近くにあった棚に頭をぶつけ、その拍子に幾つかの木箱が地面に落下し中身が飛び出した。
「いつっ!」
 右脹脛に大きな噛み痕があり、思っているよりも血は出ていないが、不規則な穴から血と黒い紐が垂れている。 
 何に噛まれたのかはすぐに分かった。足元から壁をぐるっと円を描くように御札が貼られていて、僕はその内側を踏んでしまっていた。大量の髪の上を。御札の円一杯一杯まで髪の毛が蠢いていて、その中心に口元から血を垂らした狼がこちらを見て舌なめずりをしている。
 足から垂れているのは紐ではなく束になった髪の毛だった。内一本を抜こうとすると肉の内側で動くのが感じられ、我慢して引き抜くと腰くらいまでありそうな長さの毛が……これをあと何本抜いたらいいんだ。
「Well,well,well」
 既にこの部屋の入り口まで彼女が来ていた。姿を見た途端に腰に力が入らなくなり、その場にへたり込んだ。 
 もうどこにも逃げ場が無い……逃げられない……これ以上奥に行ってもまた同じような何かに捕まってしまう想像しかできない。ここで殺される。誰にどうは関係ない……ここに入った時点で決まってたんだ。自然と涙が溢れてくる。死にたくはない、でも体が言う事を聞いてくれない。
 彼女がゆっくりと僕の方に歩み寄って来る。ナイフから滴る血が誰かの物から僕の物に変わるのか……怖い、怖い。
「Fuck off…………」
 目の前までやって来た彼女の服は、華美でないものの意匠が凝らされ時代を象徴する様な物だった。きっと値段もそれなりにするはずで、貴族じゃないにしろ良い所の出なはずだ。なのに、どうしてここに集められる羽目になってしまったのか。
「痛いっ! た、助け──うぐっ」
 乱暴に僕の髪を掴んで床に投げ付けた。顔から突起した地面にぶつかり頬と瞼の上を切り、加えて掌と胸がざくりと切れた感触がした。
 あまりの痛さにうずくまってしまった結果、僕の背中が彼女に丸見えになってしまった。
 もうだめだ……
「っ!………………?」
 が、予想した鋭い痛みはやって来ず、何故か右足を踏んで押さえつけられていた。憎々しげに睨みつける彼女は続いて左手を伸ばして、僕の右足に絡みついている髪の毛をナイフで切り落とし、足の中に残った毛を一気に引き抜いた。
「ああぁっ!!」
 叫ぶ僕を横目に、皮膚を引き裂きながら抜け出た髪の毛を束ねて刃に掛け山折りにし
「It's my prey」
 と呟いてバサリと切り分けた。その瞬間、札の円の中にいた狼が小さく身震いし彼女を睨みつけた。すると彼女も狼をキッと睨みつけて罵り、円の外から狼を狙ってナイフを振り下ろす。ナイフは鼻先を掠め、ギャンと一声鳴くと、続く二振り目が円の内側に入った瞬間を狙って彼女の手首に噛み付き、異形と幽霊の争いが始まった。
 周りのモノたちも争いに当てられてか、ガチャガチャと騒ぎ立てている。
 ……逃げるなら今しかない。僕を狙って争っている間にここから離れなきゃ。
 足を引きずりながらゆっくりと部屋の入り口を目指す。僕の事が気になる様子ではあるみたいだけれど、それどころではない状態のようだ。
 角を曲がると僕は足の痛みを我慢して走りだした。
 片足でけんけんを繰り返しながら、たまに躓き地面に転げながら出口を目指す。ただ、あの扉が閉まっている事だけが気掛かりで、どうにか開けなければ結局意味が無いことは分かっている。
 それでも戻らないと。罵る声が段々と遠ざかり、部屋を一つ二つと過ぎて本棚の前までやって来た。あの女の子の姿は無い。いた所でまたどこかに誘われるだけかもしれないからいなくて正解だろう。もしも次に会う事があれば恨み節の一つでも言わなければ気が済まない。
 少し進み彼女が靄となって現れた場所を見ると、地面に落ちた血は既に固まっていた。早すぎるとは思うけれど、常識が通じる相手ではないのは十二分に体感した。敢えて踏む必要は無いし、跨いで血溜まりを見ながら越えようとした時
「あ……」
 その血の塊の中にある物を見つけ、拾い上げた。乾いた音を立てて剥がれたそれが、一つの可能性を僕に示した。一つの可能性、一枚の紙。
 握り締めて扉へと急いだ。

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