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その息遣いを私は覚えている【後編】

「何してんの!!!」
 言葉を聞き終わる前に襟が私の首をキュッと締め、更に後方へと引っ張る力によって体が持ち上がり、勢いそのまま今し方すり抜けて来た柵にぶつかった。
 私の行動を口汚く罵りながら消えていく車と、それに対して似たような罵声を浴びせる人影が、痛みに耐える私の面前にあった。
「ちょっと大丈夫!? あいつ全然前見てなかったしさ、ほんとじじぃはクソばっかだよ、まじで。次会ったらバンパー凹ませてやろうかな」
 一通り罵倒し終えて満足したのか、その女性は思い出したかのように私に向き直ってしゃがみこみ声を掛けた。
「投げちゃってごめんね痛かったっしょ。でもさ、あんなとこにしゃがんでるから仕方ないじゃん。あのクソじじぃもじじぃだけど、あんたもあんたでこんな道に座ってんのもダメってなんで分かんないかな。言ってること分かる?」
まだ立ち上がらない私を見てか、慮ってくれている風の口調ではあるが、しかしそれ以上に怒ってもいた。
「……す、すいません」
 痛みに慣れてきた私は頭を上げた。親も呼ばれて散々怒られてしまうのだろう。それらは甘んじて受け入れなければならない。でもどうでも良かった。
 むしろ轢いてくれていれば。
「えっ」
 その女性は私の顔を見るなり驚きの声を上げた。心の声でも漏れていたのか、そう思ったが違った。
 あの時、リクが道に飛び出して車に轢かれ人が集まっていた時、道向かいにいたカップルの内の一人だった。いや、気がするだけで確信は無かったけれどその女性自ら
「あんた……事故の」
 そう言った。服装もだるめのスウェットを着て、足元にはキティちゃんのアクセサリーが付いたサンダルを履いている。いかにもな装いだ。
 別に普通の行動、だったようにも思う。痛ましい事故を見て野次馬になるか、立ち去るか。大抵はその2択でこの女性は後者を取ったと言うだけの話。
 しかし、どの思考回路が私にそう聞かせたのか、それは分からない。敢えて言うなら巡り合わせだろうか。

「なんでリクを捨てたんですか」

 その女性はカッと目を見開いた。
 自分でも驚いた。身も知らずの、たった1度目にしただけの人にそんな事を言うなんて。どうかしている。頭でも打っておかしくなってしまったのか、どんどん口が滑る。
「な、何のこと? 私、リクなんて知らない」
「リクの事知ってるんですよね、どうしてリクを捨てたんですか。どうして最後まで飼わなかったんですか」
「だから知らないって言ってるでしょ! 何回言えば分かるわけ!?」
「だってリクは! リクは……私の所に来なかったら…………死なずに……幸せだったはずなのに……」
 乾いた路面に染みが出来ていく。どうせなら同じ場所で同じ色の染みを作りたかった。
 数え切れない程流した涙は、未だ途切れることは無いらしい。
「……何言ってんの」
 頭を抱えて蹲る私の上から小さい溜息が落ちて来た。
「うちに居たって幸せだった訳ないじゃん」


 3年前のある日、まだ右も左も、自分が何者なのかも分かっていない生き物がとある家にやってきた。元気いっぱいに走り回り続々と生えて来る歯のむずがゆさに目に入った物を噛みまくる、可愛らしいゴールデンレトリバーの子犬だった。
 名前は星にちなんでリゲルと名付けられた。
 リゲルは活発で人見知りせず、何でも口にいれたり舐めたりして確かめずにはいられない性格だった。成長してからもそれは変わらず、ゆえに散歩中は常に気を張っておかなければバッタなりを口に入れてしまう様な子だった。
 家はペット可2DKのアパートで、家賃は7.8万、駅からは徒歩20分。安月給だったが仕事も順調にいっていた。
 その青年は少しやんちゃそうな見た目ではあったが、屈託の無い笑顔が印象的だった。バイト先の後輩として入って来たその青年は、仕事が出来ない所を除けば可愛げのある様に思えた。若気の至りだとか一夜の過ちと言えば、控えめな表現だろう。
 それからというもの、青年は家に入り浸るようになった。私物も次第に増えていき、家計が一緒になり、青年は働かなくなっていった。お金が無いと苛立ちを見せ、物に当たる事が多くなった。自分の言う事を聞かないと分かり易く苛立ち、たばことお酒が常に手元にあった。別れる選択を取らなかったのは、たまに気が向いたときに見せる優しさが堪らなく可愛かったからだ。
 ある時、些細な事から青年と大喧嘩に発展した。激しい罵り合いから物の投げ合いになり、そして青年は拳を振り上げた。思い切り棚にぶつかって飾られていた化粧品やアクセサリーが落下する。その内の一つが頬を切った。
 そのすぐ後だったという。
 ケージの金網を破りリゲルが青年に向かって吠えながら突進した。大型犬の攻撃が人間に防げる訳がない。下手をすれば青年が死に、リゲルが人殺しになってしまう。咄嗟にリゲルに抱き着き、死に物狂いで静止させた。
「保健所に連れて行く」
 青年はそう言った。泣いて止めるよう懇願すると、許す代わりにどこかに捨てて来いと言う。
 苦渋の決断だった。理由が理由だけに処分されてしまう可能性があるなら、一度捨てて誰かに拾われる方が良いのではないか。
 そしてその夜、遠くの山にリゲルを置いてきたのだ。誰かが見つけてくれないか、抜け出して戻ってくれはしまいか。兎に角無事でいてくれれば……それだけを祈っていた。
 それから数か月して、散歩に出かけた時の事だった。
 スーパーに向かう途中にある公園。そこはよくリゲルを散歩させていた公園でもあった。犬達が気持ちよく遊ぶに丁度良い広さで、日頃から多くの飼い主と犬達が使用する公園だった。普段からあまり近寄らない様にしており、違うルートで行くのが癖になっていた。この日は何故か青年も付いてくる流れになり、いつものルートで行こうとすると遠回りだと言われ、仕方なく公園を横切る道を選んだ。
 ワン
 犬の鳴き声が聞こえそちらを向くと、一匹のゴールデンレトリバーが走って来るのが見えた。
 まさかと思った。とっくに死んでしまったものと諦めていたリゲルにそっくりで、その犬は別の名前で呼ばれている。でも分かる。あの子はリゲルなのだと。嬉しかった。生きて、どこかの家族に引き取って貰えたのだ。同時に悲しさと悔しさが込み上げてきた。本当なら私があそこにいたはずなのにと。
 だが、その資格がもう無い事は分かっている。だから見れただけでも良しとして立ち去ろうと思った矢先……。


 話が一通り終わると公園のベンチにははしゃぐ子供の声が吹き流れていた。
 言葉をかけたほうがいいのかと思考を巡らせるがしようも無い薄い言葉が浮かんでは時間と共に消えていき、ただ、リクは二度殺されたのだなと思うだけだった。
「こんな事言っても仕方ないんだけどさ」
 彼女が口を開いた。彼女の方に少し顔を向ける。
「ちょっとあんたが羨ましいよ。だってリゲ……リクが死んだ後でも会いに来てくれてるんでしょ? もし恨んでたとしてもさ、本当に恨むべきは私なのにあんたんとこに来てるってことは……やっぱりなんか言いたい事あんのよ、気付いてほしいとか何か勘違いしてるとか」
 私は頷くでもなくベンチ横に空いた空間を見た。
 どうして皆同じ事しか言わないのだろう。勘違いしているとかリクはそう思っていないとか、そんな言葉を掛けられても正直嬉しくない。仮にそう思っていてくれたとしても、私が私を許せないのには変わりがないのだから。
「……そうですね、ありがとうございます」
「……ごめんね」
 陽が公園の芝生に大きく影を作り五時のチャイムが鳴って、少しずつ人影がまばらになっていくが二人はまだベンチに座っていた。
 すかすかになった公園を突っ切って、一人の男が私達を目掛けて威を発しながら歩いてくるのが目に入った。ベンチの近くに出入り口は無く、間違いなく彼は私達を目指している。
 恐らく話に出ていた彼氏だろう。そう思い彼女に尋ねようとすると引き攣った顔で男性を見つめていた。
「……帰って」
 見つめたまま男に聞こえない音量で私に話しかける。
「今すぐ帰って。多分カレシ機嫌悪いから、私だけじゃなくてあんたにも当たり散らかすかもしんない。早く走って」
「え、え?」
「いいから早く行って。それともうウチらに関わんない方がいいと思う。まじで何するか分かんないから」
「いやでもお姉さんはいいんですか」
「私の事はどうでもいいから」
「こいつ誰なん」
 既に目の前まで来ていた。彼女と似た大股で横に揺れながら歩くのがそんなに早いとは。
「あ、えっとね、なんか知らない子供。ただ話してただけ」
「ふーん……てかさ、遅くね?」
「あ、ごめん、ごめんね。もう帰ろうと思ってたとこだから。じゃあね」
「いやいや、ちょっと待って、何? 俺の飯ほったらかしてこいつとくっちゃべってたんよね? なんで普通に帰らそうとしてんの?」
 彼女が言った通り不機嫌を隠すことがないし自己中心的だ。そして彼女の言った通り、早く逃げておけば良かった。

バチッ

 一瞬何が起きたのか分からなかった。
 熱くなった頬が男から平手打ちを貰ったせいだと分かるまでのラグの間に、女性が立ち上がり叫んだ。
「ちょっと何してんの!」
「てめぇはすっこんでろ」
 今度は彼女に平手打ちした。その迷いの無さは日常的に暴力を奮っている者の動きで、彼女は一打でベンチにへたり込んだ。
 男は私の前にヤンキー座りで座ると、わざわざ下から覗き込み
「迷惑かけてすみませんでした、は?」
 謝罪を要求した。彼の言っている意味が理解出来なくて何も答えられずにいるとまた
バチン
 とさっきよりも強く頬を叩かれた。それでも私が何も答えられずに泣きそうになっていると、もう一度謝罪するよう言った。
 また叩かれるかもしれない。怖い。まるで別の生き物かのようだ。
「ご……ごめんなさ」
バチン
「え、え…」
バチン!
「あーいやだからさ、聞こえんやったん? ん?」
「……め……めいわくか……けて、すみません……でした」
 男は屈託の無い笑みを浮かべ
「ん」
 と満足気に立ち上がった。そしてすぐ真顔になり女性に顔を向けてぶっきらぼうに夕飯の催促をしたかと思うと、また大股で元来た道を戻り始めた。
 女性はバタバタと出していた化粧ポーチ類をカバンに詰め込み、彼の後を追いかけた。
「………………は、離して」
 そう女性が言った。
 1歩踏み出した体勢で立ち止まる彼女が見ていたのは、服の裾を掴んでいる私の手だった。
 思わず手が伸びていた。
「だ……だめ、です。行っちゃ、だめ」
 絞り出した声は自分でも聞こえないくらいにか細く震えた物だったが、彼女の耳には真っ直ぐ届いていた。
「私はいいから、早く離しなって」
 断る彼女の顔は怯えに染まっていて、さっきよりも男に声が聞こえないように注意を払っている。
「ちょっと、駄目だって、ほんとにやばいから」
 やばい事は分かっている。あのまま別れてしまってもいいはずなのに、今だってすぐに手を離して家に帰った方がいいはずなのに……私の手は彼女の裾をぎゅっと握って離さなかった。
 そうするうちに男が私達の状況に気付き、こちらに戻ってきた。
「え? これなに? どーゆうこと?」
 そして私が握っているのを見るとイラつき口角を上げ
「ヤバ過ぎでしょ、まじで。なんなん、喧嘩売ってんの? ガキのくせに? 一回痛い目見とくしかないっしょ」
 大きく溜息をついて、私の前に立つ。一瞬女性が立ちふさがろうとしたけれど、男がすごむと脇に避け、これから起こるであろう暴力を想像し目を背けた。
 男に胸倉をつかまれ地面から足が浮く。首が締まって息がしにくい。
「やっぱガキには躾がいるっしょ」
 男は拳を振り上げた。
「っ……た、たい……せ」
「ああ?」
「たいせ……つにしな……いと…………おそ……い、から」
「はあ? 何言ってんだ」
 精一杯息を吸い、叫んだ。
「いなくなってからじゃ……遅いからっ!」
 私は一体誰に向けて叫んでいるのだろうか、自分でもよく分からないがとにかく全てから解放されたかった。
「いなくなる? こいつが?」
 男は彼女をチラとも見ずに言う。
「んな訳ねえじゃん。こいつは俺の為にいるんだし、むしろいなくなって困るのこいつの方だって。適当抜かしてんなよ」
 右手が宙で拳を作り、私はぎゅっと目を瞑った。

 ……が、拳は私に当たる事は無く急に私の体は地面に落とされ、上手く着地出来ずによろめいた。それからすぐに
「いっ! ちょっ、んだよこれ!」
 喚く男の姿が目に映った。それは信じがたい光景だった。
 見えない誰かが乱暴に足を引っ張っているかのように下半身から左右に振られ、少しずつ私達から遠ざかっていく。地面には何も捕まる物がなく短く生えた芝をただ毟るしかなく、捕まえられているであろう右足とは逆足で何かを蹴ろうとしても虚しく空を切った。
「おいっ! 見てねえでどうにかしろよ!」
 男は声高に訴えたが私達にもどうにもできない。
 10メートル程離れた時だろうか、パッと足が自由になった。男はすぐさま立ち上がり怯えながら周りを見渡すが勿論誰もいない。そして私と目が合うやいなや、私を睨みつけながら速足で向かってきた。また私を殴ろうとするに違いないが止める者は誰もいない。お前を掴んでいた時に起きた事だから、お前がやったんだ。目がそう語っている。
 あと二歩で手が届きそうな所で男は地面に倒れこんだ。
 私は小さく
「リク」
 と呟いた。その声に呼応してかどこからともなく犬の鳴き声が公園に響いて、すぐに男は引きずられて私達から遠ざかっていく。
 リクだ。リクは私を、私達を守ってくれている。
 これまでずっと睡眠を妨げたり彼と同じ様な目に合わせていたのにどうして今更? リクは何がしたいのだろう。心変わり?
 そうこうしている内に男は泣き喚きながら公園のフェンスをよじ登って落下し、足をひきずりながら路地に消えていった。


 公園にはとうとう私達だけになった。生ぬるい風が芝の渋い香りを運び、姿の見えない足音が微かに混じって聞こえてくる。
 足音は軽快に芝を跳ね、私の目の前で止まった。
 止まった辺りの芝が薄っすらと凹んでいて、ハッハッハッハと規則的な早い吐息が私の腰の高さから発せられている。聞き馴染みのある息遣いだ。
 私は一歩前に出て跪いた。リクと目線を合わせるように。
「……リク……ごめんね。もっと私がしっかり……あなたのこと、しっかり掴まえてあげてれば、痛い思いせずに……リクが死なずに済んだのに……」
 死んだからと言って私の言葉が分かるようになるなんて、そんな都合のいいことは無い。特に反応はなく、ただそこにいる。
 私はそっと右の手の平を上にして腕を伸ばした。
 恐る恐る、そこにいるであろうリクの首辺りを目がけて。

「うっ……うううぅ〜〜……」
 心地の良い、絹に似た感触の毛が優しく手に乗っかった。指をゆっくり動かすと、それに合わせて毛がまとわりついてはフワリと解けていく。
 もう一生触る事の出来ないと思っていた、リクの綺麗な金色の毛。見えないけれど確かに私の手の中にある。犬らしい温かみすら感じられる。
 涙を左手で拭っても止めどなく溢れ出てきてしまい前が見えない。
「あっ」
 暫く撫でていると急にその感触が消えてしまった。急いで両手で涙を拭い見えないその姿を追うと、隣で棒立ちになっていた女性が泣いていた。
 どうしたのかと聞く前に彼女は
「今ね……私の手を舐めてるの……ずっと前に怪我した所で、私が不安な時とかによく舐めてくれた」
 そう言った。
 今度は女性の方に移動していた。もしかしたら私達を慰めてくれているのかもしれない。守ってくれたのは疑いようの無い事実だ。
 リクの優しさはリクに会った誰しもが知っている。本当に、もしかしたら……
「リゲル?」
 またリクはふっと姿を消し、今度は私の左頬を大胆に舐め、そして消えた。

 どれだけ名前を読んでも息遣いも重みも、柔らかい毛並みのどれも感じる事は出来なかった。

 この日以降、リクは私の前に姿を現す事は無くなった。そのおかげもあってか私は少しずつ体調が良くなっていき、普段通りの生活が送れるようになっていた。
 しかしながら、自分を許せているかと言えばそうではない。起こしてしまった事実は事実で、無くなる訳では無いし、深く突き刺さった棘は抜くに抜けない物なのだ。許してはいけないし許すというのはリクを忘れて自分がやった事も忘れることなのだから。
 私はこれからもずっと、あの世があるのならあの世に行ってリクをこの手に抱きしめたとしても、そうしたいと思う。
 だって私はリクの飼い主で家族なのだから。


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