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一度やると言ったこと

夏だったか秋だったか忘れたが、まだ歩いて新宿へ向かっても肌寒さを感じずに済んだ頃、ゲイバーへ行った。

急遽友人に誘われたのだ。
友人というのは男だ。ゲイバーは男性メインなので、女体の私と女友達で行くということはまずあり得ない、それならレズビアンバーかミックスバーに優先して行くから。だからゲイバーは久しぶりだった。

ゲイバーとレズビアンバーは何がどう違うか、と聞かれたら、雰囲気が違うのは感じるところだろう。ゲイバーの方がガンガン下ネタでマシンガントークが飛び会い、商業的にはノリを売っているように思う。レズビアンバーの方がどちらかと言うとゆっくり酒や会話が楽しめる。

苦難を越えた明るさは恐れ入る。バーの店員さんをどうしようもなく尊敬する。

ゲイバーで言われる言葉は軽くて、時々深い。まるで水風船を投げ合っているみたいだ。ふわんと言葉が飛んで飛んで気持ちが乗ってきたところで、バンと弾けて、私は目が覚めて泣いたように濡れている。

一度やると言ったことはやり遂げなさい

一秒ほど、客全体も静止する瞬間があるのだ。私の細胞にも刻まれた。

一度やると言ったことはやり遂げなさい。
ゲイの店員は笑顔で強い格言を吐く。

すぐには難しいかもしれない。でもいつかどこかで大切にできる教訓だろうとわかった。


一年以上経って、店員の顔も名前も忘れても、言われた言葉は消えなかった。

新宿二丁目でバーテンをするのは頓挫したが、私はもっと近くのバーでバイトをしていた。


ある日、それは私が体調不良で五日間ダウンしてようやく回復したタイミングだったのだが、いつものようにバーへ行くと、店長が声をかけてきた。

「お友達来てるよー」

へ?本当ですか。ん、ええっと、そんな名前の知り合い思い浮かばないんですけど……。

それからたっぷり五秒は固まって考えた。そして脳が過剰反応した。

それは、好きな人の名前だった。いつも苗字で呼び合うので、下の名前で突然言われても気づかなかった。しかも、そうか、私たちは「友達」だ。

その日の私はいつも決まった場所にしか仕舞わない腕時計を、全然違う場所に置いていた。まさか彼女が店に来ているとは信じられず、ひたすら現実を疑った。むしろ嫌われているのではないかと思っていたので、彼女の方から来てくれてしまうとは天地がひっくり返った心地だった。

彼女の座る席に注文を取りに行くと、彼女が話しかけて来た。
まだ十九時になって間もなかったが、彼女がだいぶ酔っているのだとわかった。カクテルグラスが空いていた。彼女は酒豪なはずなので、その状態は珍しかった。何かあったのか知りたかったけれど、詳細を聞くのも阻まれた。

私が店員で彼女が客という立場であったからでもあるが、彼女はその日よく話したしよく飲んでいた。


「空衣もフランス語やろうよ?」

彼女は言った。私は条件反射で答えた。

「いいよ」


半年後のドイツ留学に向けてドイツ語に励むべきはずなのに、私は新しくフランス語をやると宣言したのだ。何の躊躇いもなく。

好きな人が酔ったときにノリで勧めた戯言。

それに過ぎない。そうに違いない。

というのに、バイト終わりの終電で、私はさっそくフランス語のテキストを注文した。翌日から私はドイツ語に加えてフランス語も勉強し始めた。一週間で文法書を終わらせた。

そして今日、フランス語の単語帳を一周し終えた。徹底的に五日間集中した。フランス語を書くか聞くかしていないと落ち着かない体を作り上げた。

終わったよ、と報告したかった。君に負けないとも、やる気スイッチ入れてくれてありがとうとも、つまりは何でもいいから伝えてやりたかった。

彼女とはもう関われなくなってしまったというのに。

一度やると言ったからやり遂げた。
ただそれだけだ。

#小説 #エッセイ #バー

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