禁煙のような喫煙の日々

新宿歌舞伎町のゴールデン街でひとり。赤色のカクテルください、と厄介な注文をした。

カクテルの色に小宇宙を見出せる気になって、それで自分の隣が空席であることの慰めになるわけでもないけれど、私は遠くへ行けると信じていた。

店内の中年サラリーマンは役者らしく、同じく小さめの劇場で仕事をしているらしいバーテンダーと話をしていた。込み入った話はさっぱりわからなかった。
手持ち無沙汰な私も舞台のチラシを配ってもらい、劇場が通学圏内にあることを知ったが、結局それから一度も行っていない。チラシはとっくに処分した。

煙草は種類によってそんなに味が変わるものなんですか、と若さゆえに可能な質問をサラリーマンにした。他に話すことが思いつかなかったからだ。

全然違うよ、と父親より年配のサラリーマンは答えた。馬鹿にしたように、とはいかないまでも、別に私のような若造と話すことはないらしかった。

当然のことだ。私は二十歳になりたてで、父親がコレクションしていたようなガンダムやスポーツカーにも興味はないし、酒も煙草もまだ未知の世界だった。

ただ、どこにいても滲み出る実態があった。大人とされる生き物は、酒・煙草・セックスで成り立っている。映画でも現実でもわずかな例外を除いてそうであるように思えた。

煙草。

私にとってそれは、それ単体で嗜好品になり得なかった。好きな人にもらうから幸福なのだ、と信じていた。
だから種類ごとに味が違うことなど、どうでもよかった。勝手にカッコつけとけばいい。

私を喫煙者へと誘ったのは、私の好きな人だ。巻きタバコを巻いてもらい、火をつけてもらう。あまりの幸福に目眩がする。煙草の味は覚えていない。彼女から最後の煙草を受け取って、もう随分経ってしまった。

私は自分で購入してライターを持ち歩く気はない。あの日々を汚す気がして、煙草を自ら求めようとはしなかった。時々不意に吸いたくなって、友人に一本頂く。飲み会の際には、もっと吸ってしまう。

けれども、彼女と一緒にカフェで吸った本数を超えないようにしている。一気に吸っていいのは七本以下でなければならない。
あのとき積み重なった灰皿が、共に過ごした時間を具現化していて、不健康になる体と健康になる心を祝福するようだった。

喫煙者にありがちな煙草臭さとは無縁な彼女は、独特の空気を醸し出していた。彼女を知る人でもそんな魅力は感じられないだろうと思う。ただ、私はどうしようもなく惹きつけられた。

彼女とどうしたいというわけでもなかったが、煙草をもらうだけでは耐えられないほど好きなのだと知った。
水のように澄んでいたはずの想いだったが、やはり水ほどに忠実に増えていって、そのうち抑えるのが困難になった。いつでも溢れる一歩手前だった。もはや表面張力のみでバランスを取ろうとしていた。

好きだと叫んで泣きつきたかった。彼女を困惑させるだけのエゴイストに、私は成りかねなかった。危なかった。

そうなる前に、彼女はどこか遠くへ行ってしまったと、授業中の後ろ姿で感じた。季節は移り変わっていた。

恋愛と情熱とは消え去ることがあっても、好意は永久に勝利を告げるだろう。
ゲーテ『温順なクセーニエン』


私にあるのは彼女への好意だ。それだけだ。と、言えなければならない。私は生涯彼女を敬愛したい。
彼女と吸った煙草の灰は、風に巻かれて帰ってくることのない旅へ出た。恋愛と情熱は意図的に消される努力を施された。

最近は、かつてサラリーマンが言ったように、煙草は種類によって味が異なり、どれが美味しいのかという、知識や好みが芽生えてきた。
それを肯定するか否定するかの決断はまだ出来ない。

#小説 #エッセイ

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