JK時代

紙パックのリプトンは女子高生の兵器、と綴る友人は、大学入ってコンビニバイト始めるまでそんな紅茶の存在を知らなかった、と言い返すこともできない私とは、やはり対極にいるのだった。

図書室の隅の、ボロボロになったソファ席で知らない著者の本を漁ってみる時間が、一番尊かったのかもしれない。
私には集団競技の楽しさがUMA以上に異常にミステリーだった。バレーやろうよ、に反応する人がクラスのカースト上位半分ってのは、強烈なリーダー格が強力磁石で、それにくっつくのが自明のことのようで。わたしたち、人間やめたんだっけ。

共通することと言ったら、スカートを折って、ホームから階段を登るときガリ勉バック(プラスチックの書類ケース)を背後に当てて、そうしながら男性陣の視線を否応なく受けているのを感じて、密かなセクハラが自身のアイデンティティを保つものとして自負するくらいの、底なしのアホっぽさを持つことくらいだ。
ついでに、酒やタバコやセックスは悪いもの、という教科書の知識をマジメに享受する、中途半端な優等生の仮面を被り続けることとか。

思い返せばきっと私にも青春があったはずだ。

好きな男子と勉強会をするために、文字通り命がけで世界史の知識をぶち込んだことだったり。彼に話しかけたくて、カッコいい系の彼が意外にもムーミン好きだと知ったから、ムーミンカフェに行ってみて報告したとか、多分そういうこと。いや本当に、彼は可愛かった。先生に最近面白い出来事ないの、と話題を振られて、家に家族がいないとき鍵閉めないでトイレに入ったらすごく爽快だった、みたいななんかこう、どうでもいい幸福を滝のようにバンバン振らせてくれたのだ彼は。

あとは図書館の入り口に見慣れぬトランスジェンダーとか同性愛関連の本が並んでいたのに、堂々と手を伸ばす機会に恵まれなかったとか。受験勉強の科目を無視してまで、未知の用語に冒険する勇気はなかった。リプトンが並ぶコーナーに足を延ばすことすらしなかった私だもの。

おかげで、女子にもあんな感情を抱いていると自覚できずにいた。巻き髪のステキな彼女が所属する室内楽部は、私の部室のすぐ横にあって、バイオリンを奏でる横顔に胸がぞわぞわするのを放っておいた。塾で隣か前後の席に座れるように必死だったくせに、私の辞書から恋が消滅したようだった。
彼女がイケメン彼氏とデートした日に塾で会ったら、彼女はいつも以上に抜群にかわいくて、そんな状況を既成事実として受け入れる。私はコンニャクになれたらよかった。

好きな人がデートしたとかセックスしたという話を、なんでもないことのように聞き入れる今の私も、その頃から成長していない。枯れきって種子が出ないみたいに、わんわん涙を溢すこともしない。壊れちゃったのか。根元から腐っちゃってて、生まれてくること自体誤っていたかもね。

なんの話だかわからなくなった。私は上手くシャボン玉が作れない類のやつに違いない。話をぽんぽん空へ羽ばたかせて、ぱちんっと散る頃にはもう次のシャボン玉を膨らませて知らん顔できるほど、世渡り上手な生徒ではなかった。ただそれだけのこと。
高校生時代を終えて、自分の対極にいるような友人ができたというのは、成長の証であり慰めになり得るという、その愛おしさは抱きしめられる。


#エッセイ

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