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不思議の国の豊45/#子孫と生き延びる

前回はここまで、そして

#子孫と生き延びる

地震が多かった。

僕の体感する地震が週に一回はあった。

千葉県市原市の埋め立て地に立つ工場、

そこが僕の職場だった。

ここ石油化学コンビナートの奥まった敷地に

工場建屋と、数々の化学物質のタンクが林立していた。

地震が来て、どれかが漏れ出し引火すれば

辺りは火の海と化すだろう。

とても生き残れそうにはなかった。

埋め立て地だから、液状化にも襲われる。

タンク群が火が点かなかったとしても、

ずぶずぶと地下に沈み込んでいく様子が脳裏に鮮明に浮かぶ。

これによっても助からない。

タンク間のパイプが切れ、バルブが壊れ、

有毒の幾種類もの化学物質が辺りを覆う。

津波だって来る。

「ここは子育てする環境じゃないな。

それにまた関東大震災レベルの地震が来たら、

当時より悲惨になる。

あの時代にはあった井戸が

首都圏に隣接する都市化されて所には

今は埋められて皆無に近いだろう。

運よく焼け残って助かった命が、

水がないがために死ぬ。」


僕はそんなところを職場にしていた。

僕は高専で電気工学を専門に学んだ。

なぜケミカルの会社にいるかは

又説明する機会があるだろう。

僕はこの外資が半分入った

完全週休2日で他よりの給料も福利厚生もいい

会社の社長に嘱望されて入ったのだった。

入社3年も経ったある日、

僕の同期入社の女の子が辞めた。

他の女の子も、これくらいで寿退社する。

でも彼女は違った。

僕は彼女の「私、声優になるの」

と言う言葉に衝撃を受けた。

羨ましくも、嬉しくもあった。

寿退社が人生を選んでないとは言わないが、

彼女はまさに人生を選んでいた。

翻って僕はどうたろう?

僕に任されるはずの四日市の新工場建設の設計施工は

オイルショックで凍結され、

ここの敷地内にお茶を濁したような旧式の工場増設をしている。

今までの工場のコピーでしかなく

僕には町工場の家内制手工業にしか見えなかった。

僕が思い描いた電子制御の工場ではない。

僕はそこの現場の工事の監視みたいな

窓際族みたいな仕事を任されていた。

仕事にやりがいはなかった。

僕も辞めるべきなのだ。

しかし、ただ辞めたのでは、

収入が得られない。

かといってもうサラリーマンは面白くなかった。

額面では年間20日ある有給休暇も、

ほとんどの社員が限度である2年間を溜め、

40日あるという状態だった。

中途半端な労働組合は会社に対して

有給休暇は流さないように促すから

年度末に年寄りの社員優先で、大量消費される。

彼らは休みたくないのに、休まされ、

僕たち若手は休みたいのに休めない。


もう無茶苦茶だ。

それによって、ぼくたち若手は、

スキーに行こうと思ってせっかく溜めた有給休暇が

使えないまま繰り越すことになっていた。

それでも僕は使った方だった。

就業時間の5時を過ぎて、事務所で屯したり、

場合によっては時間外の労働を自主的にする同僚や先輩をしり目に

僕はさっさと職場をあとにしていたように

有給休暇もスキーに向けて節約しながらも要所要所で使った。

それでも4年目になる今年は35日ほどある。

ここは工場なので、こまめに火を落とすとロスが出るから、

5月の連休前後は連続9日程度、操業を止める。

5月1日のメーデーから公休などを振り替えて連休を作ると、

多くの社員は里帰りや旅行に出かける。

僕も、高専の友達と陸奥でも行こうという事になっていた。

僕は、4月29日までの9日間を有給を使って連休にした。

そこで高知に帰り、父の生姜の植え付けを手伝って、

アルバイト料をもらうことにしていた。

そして、4月30日の朝、会社に電話した。

「ちょっと都合で今日は出社できません。」

僕は都合20連休を確保した。

その時、「日本で一番命のリスクが低い、

つまり災害リスクの低い

高知県で農業を始めよう。」

「ここなら、近くに火山はなく、それよる地震などの災害確率は低い、

中山間なら、洪水や津波もない、

土砂崩れ・竜巻は、地形を選んで家を建てればいい、

台風は、万全の準備をしてその日にうろうろしなければいい。

高知県は日本一の雨の多いところ、水が枯れることもない。

ここで生き延びよう!」

と決めた。

「自営業になって、長期休暇を2-3か月

土日以外だって、8時間以上は働かない。

勿論土日以外でも自由に休む。

自然の中で、子供たちと存分に遊ぼう。」

高専の5年生の夏休みイギリスに短期語学留学した。

その時イギリスのホームステイ先の家族が言っていた

「#5ペンスの残業代より5分の薔薇いじりの時間が大事 」

まさにこれだった。

と、まだ伴侶もいないのに妄想をして

高知で農業を始めることを決めた。

そして、父に農業のことを詳しく聞いて、

後半の9連休に陸奥の旅に出発した。

以下次号




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