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「死ぬこと」は怖い?楽しい?嬉しい?

前回の記事で触れた、「死への恐れ」。
 
中枢にいきなりぶっこんでみたいと思います。
 

そもそもなんで人は、「死ぬことが怖い」と当たり前のように感じているのか?です。
 
「怖い」は、事実ではなくフィーリングで、前回これは身体に組み込まれている「生命維持システム」が作動しているからだ、と書きました。
 
システムの作動そのものは機械的で、「怖い」というフィーリングもまた、人間が進化していくために必要なものとして、なんらかの体内の化学作用そして分泌されているもの、と考えるのが妥当だと思います。
 

ですから、「死ぬのが怖い」と感じることは、ある意味当たり前。
 
もしも「死ぬのが怖い」という機能が働かなければ、人間はもっと簡単に死ぬことができると思います。アクセルだけがあって、ブレーキのない車と同じで、死に対しての歯止めが効かなくなります。
 
私達は「生かされている」と以前も書きましたが、その機能の中にはこの「死ぬことへの恐れ」も貢献していると言えます。
 

ではみなさんは、当たり前なことにいちいち反応するでしょうか? 

毎日立ったり歩いたりするのに、いちいち驚きますか?不安になりますか?
多分、ならないと思います。むしろ新鮮味すらなく、無意識下にあると思います。

でもなぜか、「死」に対してはそうはならないのは、
ひとつには単純に「体験がない」からです。

当然のこととして、死は1度しか体験できないですから、いつまでも「未知」なんですよね。体験データがない。

ですが、「死ぬのが怖い」と感じることは、人によっては何度か体験できたりします。何も出来事がなくても、10代の頃「自殺願望」がふとよぎったり、身近な人の死を目の当たりにして感じた経験がある方も多いはず。

言いたいこと、伝わりますか?

「死」に対する姿勢に、学びや成長がないなと思うのです。

「死ぬことを怖れて、生きることができない」
 
これは、都はるみさんが歌う「愛は花 きみはその種子」という歌の歌詞の一節ですが、本当にその通りだなと思います。
 
 
さらに言えば、人が怖れているのは「死」という現象そのものよりも、「死ぬのが怖い」というフィーリングの方。
「怖い」という感覚を受け入れられず、ワタワタしたり、メソメソしたり。
それを「死は悲しいもの」などと美しく飾り立てたところで、死を受け入れていないだけの話で。

感情の波にさらわれ、冷静に「死」を理解しようとする姿勢すら生まれない。

悲しい、見たくない、避けたい、来ないで欲しい

そんな風に「死」を扱っている内は、そこに向かってあなたは今まさに走っているということで、そんな人生に、安心できていますか?

人間の肉体は、必ず滅びる。
植物が最後には枯れて土に還るように、物理には必ず終わりがあるのは道理で、人間とて例外ではないことくらいは、誰もが理解できていること。

で、それは「悲しいこと」なのでしょうか?

別離が悲しいのでしょうか?
もう生きられないから悲しいのでしょうか?
この世から存在が消えるから悲しいのでしょうか?

そもそも、「悲しみ」って、なんでしょうか?


事実と感情のすみ分けが曖昧になってるの、わかりますか?

「肉体はいつか滅びる」これは現時点では事実です。
今のところ、不老不死の人に出会ったことはないですからね。

一方で「悲しい」は感情です。事実ではありません。
悲しいと思わない人だっていてもいい。感じ方は自由です。

でも現代はあまりにも、「死は悲しいもの」という捉え方だらけで、積極的に語ろうとすることもなければ、どこか特別視してしまっている。
(メディアの影響も大きいです)

死刑が最も重い判決であったりするのも、「一番嫌なこと」という認識があるからでは?

その「一番嫌なこと」に、今この瞬間向かっているとして、そんな人生を心から楽しめていますか?

世の中が「死」をどう扱おうと自由ですが、それを鵜呑みにするかどうかは自分次第だと思うんですよね。

数年前に父が亡くなった時、私はその「死」から「生」を感じました。
父の生き様のすべてが、最後のこの「死」をもって完成したような、最高の表現を見せてもらえたような、そんな気がしました。
 
また、肉体は焼かれても、父の存在は消えませんでした。
存在は目に見える形とは関係がないことを、教えてもらいました。

亡くなったという事実は受け入れながらも、悲しみはありませんでした。
自分でも、驚きましたが(笑)

それまでは私も他に漏れず、考えも根拠もなくただなんとなく、「死は怖い、死は嫌なもの」と捉えていました。
ですがそれは、単に「無知」だっただけのことでした。

見つめることもなく、考えることもなければ、脳みそはアップデートされませんから、子供の頃の認識のままだったワケです。


実際に自分が死に直面した時に、自分がどう感じるかはその時にならないとわかりませんし、その時になれば、わかります。
それを知りたいなとは思います。

でも今少なくとも思えるのは、「死は怖いものではない」と感じている私がいる、ということ。でも人間ですから、「怖い」という反応が今後出てくる場合はもちろんあります。

「怖い」と感じる自分も含めて、丸ごと受容するだけ。

それが明日なのか、数十年後なのかはわかりませんが、未来は白紙ですからわかる必要もなく、淡々とそこに向かって行くだけ。

嬉しいとか悲しいとか、フィーリングで捉えるのではなく、事実を受け入れているだけです。逃れようがないというか、逃れる必要もないというか。

私の死生観を語りたいのではなく、「死に対する捉え方」の提案をしています。アップデートしましょうよ、という話です。

時代はどんどん最先端を行ってますが、人間の脳みそが「理解力」によってアップデートされない限り、結局根本的にはなにも変わっていません。
 
老いることや病むことへの不安や心配も、
死への恐れから来ています。

その結果の現代医療であり、アンチエイジングであり、健康志向であり。
その業界が盛り上がれば盛り上がるほど、残念ながらそこに怖れがあり続けていることの証にもなりますね。

 

死を怖れる人には、その望み通り「怖れるもの」として「死」がやってくるだけのこと。

世界はいつでも、自分が創っています。

そろそろ、学ぼうよ。

シンプルなオチは、前回の記事の最後に書いてあります。

 

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