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辻褄合わせ、虚無な夜

今日はローマからパリに移動し、
また別のホテルに宿泊している。

空港からは車で10分くらいで、
値段の割には広くてゆったりとした部屋だ。

ここ最近、異国で気分が晴れ晴れしてるかと思いきや
極めていつも通りで、
なんなら躁鬱の鬱が若干浮き出てしまったせいで
わりとダウンしてる日もあったくらいだ。


現実はいつになっても追いかけてくる、
どこで何をしていても。


よく、「日本一周をして人生を変えようと思っている」

とか、

「世界に旅に出たら自分というものが見つかるかもしれない」

とか言っている人がいるが、

日本を横断したり、
もうなんだかんだで20か国くらい行ってる身からすると、
特に何も変わらない、と思う。


残酷だが、現実は現実としてそこに君臨し続けるし、
ちっぽけな自分からは相変わらず脱することができない。


僕のライフスタイルに対して憧れてくれたり、
若くて成功してると言ってくれる人もいる。


でもそれなら何故、
異国の地で深夜に1時間も散歩して、
言葉にできないほどの寂しさを抱えているのだろうか。


あらゆるものを手にしたようで、
実際は何も手にしていない気もする。


そもそも一体、何をもって成功と言うのだろうか。


勝ち組とか負け組とか、
そういうのも結構くだらないと思う。



定期的に思い出す光景。

学校が終わったら逃げるようにして帰ったり、
逆に、ほぼ全員が帰った後に
暗くなった校舎を一人でホッとしながら歩く自分。


あれは一体なんだったのだろうか。

同じようなことをなぜずっとやっていたのだろうか。


1つ思ったことがある。

あれは、怖かったのだ。


逃げるようにして帰ったり、
逆に、みんなが帰った後に帰らないと、
一人でいることがバレてしまう。


バレてしまうことが恥ずかしかったし、怖かった。


同じ理由で、トイレでご飯を食ったりもしていた。

一人でいることがバレるくらいなら、
そうしてる方がよかったのだ。


色々なことを思う。

本質的に自分は何も変わっていなくて、
何も手に入っていないように感じてしまう夜。


手の中にあると信じていたものはなんだったのか。

いざ手を開いたとき、ソレは本当にそこにあるのか。

無いとしたら、じゃあどのタイミングで失ってしまったのか。

自分は一体、何を手に入れて、何を失ってきたのか。



一時期自分は、別にそこまで忙しくないのに、
プライベートのTwitterやInstagramで忙しさを演出していた。


それによって前よりも誘われなくなった。

でも、どこか安心している自分がいた。


それは、「忙しい状態なら誘われなくても当たり前」
という、現実への言い訳ができるからだ。


誘われている状態から誘われない状態に
変化するのが怖かったし、

Instagramで自分が映っていない集合写真を
たびたび見るのがつらかった。


そんなことを気にしても仕方ないのだが、
なぜかダメージを食らっていたのだ。


そう思うと、僕がホテル暮らしをやめなかったり、
国内外をフラフラしてるのも、
潜在的に現実への言い訳をしたいから、という解釈もできる。


つまり、本当は、
好きだった人とずっと一緒にいたかったし
誘われたかった人たちとずっと遊んでいたかったが、
ある日から、それが叶わないとわかってしまった。


でも、ホテルで暮らしていて国内外を旅してるなら、
まぁ仕方ないよね、と辻褄を合わせることができる。


そういうことを繰り返しては
自分の心を保っている気もする。

もう10年以上前から、
同じことをやっているような感覚もある。


人間の根本の性質はそこまで変わらないのかもしれない。


付き合う人も変わった、
場所も選べるようになった、
お金や時間の束縛からも解放された。

でも、自分の根底は何も変わっていないような。


あの頃よりは幸せだけど、
自分はいつまでも自分なのだろうか、
と思うとちょっとうんざりする時がある。

教室の隅で寝たふりをしていた
自分の心臓の音が聞こえる。

なぜあんなにバクバクしていたのだろうか。

そもそもなぜ寝たふりをしていたのか。

一体誰に気づいて欲しかったのか。

その時はねむたい演技をして、顔を上げたのだろうか。



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