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彼女はいわゆるトップキャバ嬢で、LGBTである僕、つまりそういう目では一切見ない僕に対してほぼ初対面の段階で心を開いてくれた。彼女はキャバクラ以外にも多方面で活動していて、テレビにも出ているし、80万回ほど再生されているMVにも出演している。僕を見て、最初、「私はあなたとなら友達になれるってこと?」と聞いた。僕は「そうかもしれない」と返して少し笑った。彼女もかすかに笑った。それからというもの、何度か呼び出しを食らった。

彼女は明確に壊れていた。もう体も心も崩れかけており、それを第三者が静止できないような気もした。救いも求めてこなかったし、余計なことは聞かないようにした。彼女にはもう家族がいなかったことを知っていた。ひとりで上京し、ひとりでこの街で生きてきたのだ。アルコールと欲望が渦巻くこの黒い街で。

「新宿の廃墟に来て」と電話越しで言われた日、僕は早歩きで銀座のホテルを出て、その場所へきちんと向かうことにした。タクシーの後部座席の左側、窓を開けると東京の夜の空気が一気に入り込んできた。人がなだれにように連なって歩いている。信号を右に曲がった瞬間、なぜかカルキの匂いがした。小学生の頃のプールを思い出した。プールの下には巨大な空洞があり、そこでかくれんぼをしていた。一緒に隠れていた友人が誰だったかは覚えていない。いつになったら鬼は見つけてくれるのだろう、と思っていた。

「早く来て、ここね」と写真付きのLINEが飛んできた。僕はそれに既読だけを付けて無視した。LINEからTwitterにアプリを移行した。ただただタイムラインを眺める。これらの言葉をみんな本心で言ってるのだろうか、と思い、少し悲しくなった。薄暗い車内にスマホの画面が妙にチカチカと反射し、思わず目を細める。そのまま窓の外の景色を眺める。看板のネオンが目に吸い込むように入ってきたので、もうどこも見ずに目を閉じた。ため息をつく。心臓の音がいつもより大きく聞こえた。

その廃墟に着くと、僕はまず全体を見渡した。入り口らしき場所がある。しかしどう考えても人が入るような場所ではない。一部の壁は崩れ落ちていて、鉄の棒があちこち飛び出ている。空を見上げると星は1つも見えなかった。そりゃそうだよな、と思いつつ、入り口付近に向かう。音はしなかったが、遠くで犬らしきものの鳴き声が聞こえた。鳴き声の方面に顔を傾ける。暗くてよく見えない。足が地面を踏む音だけが確かなものだった。

入り口から入って十秒ほど経った後、「来てくれると思った」という声が聞こえた。彼女だった。全身黒っぽい服装のような気がしたが、暗闇に紛れててるだけで、実際は別の色の可能性もあるな、などと考えた。彼女はどうせ待ち構えていると思っていたので、あまりビクりとはしなかったが、顔面に無表情が張り付いているような顔つきを見て、あぁ、これはまずいな、と思った。

彼女は「かくれんぼでもしない?」と言い、僕がその提案を飲み込む前に、「私が鬼ね」「5分後に探し始める」と続けた。これが夢なら早く覚めてくれと思った。また遠くで犬らしきものの鳴き声が聞こえた。その音は暗闇に飲み込まれてすぐに消えた。僕が「あれって犬だよね?」と聞くと、「犬じゃないと言ったら?」と返された。彼女の顔をよく見ると、わずかに微笑していた。スマホを取り出して時刻を確認した。23時48分。その明るさで彼女の服の色が黒だと分かった。僕も同じく黒っぽい服装をしていたので、遠目で見たら僕らは透明人間になっているかもな、と思った。

5分の間に、僕はドアがない部屋の奥、不自然なほどに唐突に置かれている棚の後ろに隠れた。後ろには窓ガラスがあり、月明かりが照らされている。この場所なら彼女の近くだし、すぐに見つけてもらえると思っていた。早くここを出たかった。もう彼女とは距離を置こうとも考えていた。足元を見ると小さなガラスの破片と砂利がまばらに散りばめられている。少し動くとジャリジャリと音がして、見つけて欲しいはずなのに、これじゃあすぐに見つかっちゃうよ、と矛盾じみたことを思った。ふと、あのプールの下に隠れていた時のことを思い出した。誰も見つけてくれなかった。あの日の続きなのかもしれないな、とも思った。

「言い忘れてたけど、もし見つけられたら焼肉奢ってね」と大きな声が聞こえた。でもそのまま部屋の前を通り過ぎたようだった。足音が小さくなり、やがて聞こえなくなる。他の部屋に入ったのか、階段のところまで行ったのかは分からない。床にお尻をつけないままキープする姿勢がつらかったので、もういいやと思いペタンと座った。ガラスが刺さらないように慎重に。そのまま背中を棚に預けて、安堵のため息をつきながら、窓の外を見やった。差し込んできている光をしばらく見つめた。それから車の音が聞こえた。やけにガスの排出量が多い車だなと思った。

結局、彼女は見つけてくれなかった。40分ほど経過した後、「見つからないから先に帰るね」というLINEが届き、その数秒後、「焼肉にはひとりで行ってくる、歌舞伎町で」という文章も届いていた。僕はそれに対して「かくれんぼで先に帰る人種の気持ちが分からない」と返した。そしたら、「何事も見つけらないままの方がいいことってあるよ。見つけてしまったらそれで物語が終わってしまうから」と言われた。『物語は両想いになったら終わる』というキャッチコピーを思い出した。たしかルミネの広告だったろうか。

帰ろうと思って立ち上がった瞬間、「おいお前、誰にも見つけてもらえないまま、また帰るのか。それでいのか?本当にそれでいいんだな?」という声がどこからか聞こえた。「お前はずっと隠れたままだ。この廃墟を出てもそうだ」「早く見つけてもらわないといけない。タイムオーバーになってしまう前に」と続けて言われ、この声の持ち主は誰だろうと思い、部屋中を見渡した。さっきより空間の温度が下がってるような気がした。冷や汗で額がじゅわっとした。思わず左手でその汗を拭った。

部屋を出る瞬間、そうかこれは幻聴か、と思った。いや全てが夢かもしれないと思いほっぺたをつねったが痛みを感じた。また犬らしきものの鳴き声が遠くから聞こえた。しかしさっきよりクリアに、ただの鳴き声ではなく誰かを探してるかのような迫力を感じた。それに共鳴するように、別の場所から鳴き声が聞こえた。二匹とも空に向かって勢いよく吠える。

僕は鳴き声を真似して吠えた。二匹の鳴き声はさらに大きくなる。自分はここにいるぞ、見つけてくれよ、と思った。その気持ちが伝わったのか、鳴き声はどんどん大きくなったものの、やがてパチンと弾けるように全てが消えた。何も聴こえなくなった。それどころか、あれらは犬ではなく人の鳴き声だったなとほぼ確信めいた感覚で急に思った。彼らも誰かを探していたのか、もしくは探してもらえるのを待っていたのだろうか。

「何事も見つけらないままの方がいいことってあるよ。見つけてしまったらそれで物語が終わってしまうから」という彼女のセリフを思い出す。僕は何事もなかったかのようにその場を後にし、やがてタクシーに乗り込んだ。これは26歳の時の話である。


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(by 20代起業家)

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