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皆、しばしば悩み、立ち止まり、それでも語る

以前、こんな記事を書いたことがあります。

私はこの本を読んだこと。

そして息子が受けたいじめ...というか暴力についてこの時期は考えていました。

この本の中で「奪われた言葉」という章があります。

傷ついて弱ってしまって追い込まれた人は誰かにSOSを発信することができなくなります。自分の存在をないがしろにされて認められず、他者からの否定を繰り返された人が、自分のことばを取り戻すことは容易なことではありません。

渦中の人がことばを失ってしまうことは決して少ないことではないと思います。

長年関わっている利用者さんがいます。

もう長い付き合いです。

彼が怪我をして約一年弱後に私は彼と出会いました。

その時は「よくなってやる。また歩けるようになってやる」と障害克服への気持ちを盛んに話していました。前向きなことばとどこか焦燥感のようなものも感じさせながら、私は彼の気持ちをただ聞き続けていました。

あれから数年経ちました。

もう「歩けるようになりたい」ということは言わなくなりました。

最近怪我をしたことについて...以前はことばにしなかった思いを話しています。

「なんで俺なんだと思った」

「あの時のことを思い出さないことはない」

「死んでしまった方がよかったと思うこともある」

「くやしい」

時間が経ってから言えること。

あの時は言えなかった気持ち。

おそらくあの時ことばにしてしまうと

どこか、自分が前に進んでいく気持ちにブレーキをかけたり、悲嘆にくれてしまうことを

きっと...肌で感じていたのかもしれません。

あの時猛スピードで疾走していた彼も、今はきっと、少し立ち止まって...そこから自分のことばを紡ぎ出すことができたのでしょう。


時間が経ってから話せることはあります。

時間が経つと「あの時」から距離も取れます。

時間が経つことで、違った光、もしくは影をみつけることができるかもしれません。

起こった事実は変わりませんが、自分の中の語り、出てくることばは...おそらくいくらだって変化するのだと思います。

くどうれいんさんの本を友達が数年前にすすめてくださいました。


私は3.11が来るとこの本を手に取ります。

今年はくどうれいんさんがブログにこの本のことについて...気持ちを寄せられていました。

語ること。
当事者ではない...。
自分よりもっとつらい人がいるから...。
私の話なんか聞いても仕方ない...。

くどうれいんさんは震災から10年後にこの本を出版しました。

とげとげした気持ちをそっとなでてくれるやさしさと、世の中に対しての抗いが含まれたこの物語から、私はやっぱり、なんとかこのままならない気持ちを、カタチにならない声を、凸凹で不器用で、何を言ってるのかわからない文章でも。

また書き続けたいなと今は思っています。

そして、また。

あなたの声も私は聞きに行きたいと思っています。


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