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終わりを意識すること

はじまりがあれば終わりがあることは知っている。

出会いがあれば別れることも知っている。

今おこっている楽しいことは永遠には続かないことも知っている。

朝が来れば夜がくることも知ってる。

生まれたらいつかは命が絶えることも知っている。


頭ではわかっている。

いつか読んだ本にも書いてある。

映画でも別れのシーンはたくさん描かれている。

音楽では別れた相手に贈るメッセージを歌手が熱心に歌い上げている。

喪失を糧にアートが生まれていく。

痛みとともにことばが紡がれていく。

自分の人生でもたくさんの人が通り過ぎて私の目の前からいなくなった。


はじまった瞬間に何かを喪失してしまう不安がついてくる。かといって、はじめなければ体験できない瞬間がある。出会えない人もいる。新しい自分を発見したり、さらなる可能性を見出すチャンスを逃してしまうかもしれない。

喪失をおそれて終わりを意識して感情や行動をセーブするということが果たしてできるのだろうか。

大きな悲しみに包まれるならいっそ出会わなければよかったのか。

たとえその幸せな瞬間が永遠に続かず、人生でたった一度っきりの出来事であったとしても、そのたった一瞬の出来事で、人はいのちを輝かせることができるのではないかなと思う。

そしてその一度っきりの体験は相手に与えてもらうのではなく、自分でつかみとるべきものなのかもしれない。


私がもし好きな映画を一つ選べと言われるなら

おそらく私は「シングルマン」という映画を選ぶ。


主人公のジョージは愛する人を事故で失う。

彼は愛する彼の喪失に耐えられず、自殺をすることを決めて最期の1日を過ごす。

その日の彼はとても儚く美しく、あるいはとても醜かった。

命を絶やすことの愚かさと比例するように、彼の世界はそれまで見えていたモノトーンの世界から鮮やかな色がつきはじめる。

皮肉にも死を意識することで、彼は生を取り戻してしまった。


この矛盾。


以前と同じ景色を見ているのに生々しく息づいたカラフルな世界では、あらたな気持ちの芽生えがあった。

彼は海の中で、生を感じると共に死に対する揺らぎが出てきてしまう。

それはどこか滑稽だがまた美しくもある。

私は自分自身に終わりを意識する出来事があると決まってこのシングルマンという映画を思いだす。


むしろいつか終わりが訪れるからこそ日常がカラフルに感じられる。

ごくありふれたなんでもない瞬間を慈しめるようになる。

そして、ジョージのように色のついた世界を思い出せるだけで、もういいのだと思う。世界はその人の中で永遠になれる。

だから終わりや制限といったものは、限りなく永遠に近づけるために必要なプロセスの一環であるのかもしれない。


また訪れた矛盾した考え。


でも実感を伴いながらそう思ってしまう自分もいる。


気づいたら、全てははじまっている。

チクタク...と進んでしまった時計は逆戻りはできない。迷わず前を見て、恐れずに終わりをきちんと見届けたいと願う。

そして大切なものを自分の永遠にしながら、いつか私が何かの永遠になれる日を待ちながら、一歩一歩踏み締めて歩んでいく。

鮮やかな色のついた瞬間を見逃さないように、ささやかな当たり前の尊さに気づきたいと、最近は切に願っている自分がいる。






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