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それは深雪のようだった

左の肩から指先までは白い布で覆われていた。


私は患者さんの肩からゆっくりとその三角布を外す。
肩にゆっくりと触れる。
まだ少し痛みがあるようなので、遠位の関節から慎重に動かす。

彼女の肌はいつもひんやりと冷えていた。あたたかい私の手と重なる。

手関節から肘関節へ、各関節方向へ最終域感を感じながら、それはまるで大切な儀式のようにゆるやかにじっくりととり行われる。

肩関節に関しては、前かがみになってもらい、だらんと力を抜いて、重力に従う形で床面に向かって下ろしてもらう。

痛みがないことを確認しながら、振り子のように腕を振る。動きをサポートしながら徐々に可動範囲が広がっていることを確認して、ご自分でも空いている時間に行ってもらうよう伝える。


動かしている間は私も彼女も一言も話さなかった。


リハビリテーションが終わると、ささやくような小さな声で「ありがとうございました」と一言話した。表情の変化はあまりない。


毎回、彼女と対峙していると

私の頭の中は一面の雪景色に変化する。


音もなく粉雪が降り続ける。

銀色に輝く雪は淡く、小さく、ひらひらと舞い散る桜のように、どこまでもどこまでもしんしんと一面に降り注ぎ、あっという間に深くなる。

深い雪に包まれた私は身動きが取れず、そのまま静寂が訪れる。


足元の雪をかいてもかいても地面は見えない。

森閑たるその空間は、生き物の気配がしない、神聖な場所のようだ。私はその場所がこわい、どこかに逃れたい気持ちで胸がいっぱいになってしまう。

雪が私を覆う。


ある日、いつものリハビリテーションの時間になっても、彼女は病室にいなかった。

私は院内を探す。看護師さんなどに情報を聞き出すが、見当たらない。

ふと、思い付き、階段を上る。階段を上がると日差しがまぶしく私に降り注ぐ。

目に入る青い空は雲ひとつなかった。

ロープに干してある白いシーツがはためいていた。

やはり屋上に彼女はいた。

彼女は遠くを見ていた。

視線は遠かった。

私はわかった。彼女が見ている景色はここではないことを


ここではない。きっと岩手だ。見ているのは故郷。

いつも私と対面していても、彼女はここにいなかった。

彼女の心は岩手にあり、夫にあり、我が家にある。


私は声をかけるのをためらった。

声をかけずにそっと隣に近づき、静かに合わせるように呼吸をした。

私にできることは同じ方向を隣で見ていることだけだった。彼女には見えている風景が私には見えない。私が見ている風景は彼女は見ていない。

2人の視線は全く違うものをとらえていた。

同じ場所にいるのに、私たちの距離は遠かった。



東日本大震災は、たくさんの犠牲者を出した。

彼女は故郷の岩手で津波にのまれた。
大きな力になすすべもなく、流されてしまったが、幸いにして命は助かり、鎖骨を折る程度の怪我で済んだ。

彼女の夫は津波にのまれ、いまだ行方不明だった。

自宅が倒壊し、故郷に身寄りがなく行き先を失った彼女は、親戚がいる私たちの地域へ運ばれてきた。

ここまでの情報はカルテから得たものだ。

私は彼女と1度たりとも故郷の話をしなかった。

私は彼女に何を話したらいいのかがわからなかった。

彼女自身が自分について語りだすまでは、今回の事は聞かないことにした。

今は私が何を言っても傷つけるだけだと、確信に近い思いがあった。

病院の入院期間はあとわずかだった。


長いこと遠くを見つめ続けていた彼女は、振り向いて私に声をかけ、病室へ戻った。

しばらくして、結局、彼女自身が震災のことを語ることがないまま、私は退院する彼女を見送ることとなった。

70代で故郷を離れ、我が家を無くし、愛する人が見つからない苦しみは、私には想像もつかないことだった。

これからまだまだ彼女が乗り越えなければならないことがたくさんあることだけは、私にだってわかる。


あの深雪はまだまだ溶けない。

彼女に降り注ぐ深い深い雪は、冠雪となって全てを覆いつくしてしまうだろう。

でも、私は願う。

きっと地面の下では萌芽が眠っていることを。

明るい春の兆しが、備わっていることを。

いつの日か残雪が溶けて、地面が顔を出すときに、発芽し、彼女に笑顔が少しずつ戻ってくることを。

その時はただ願うだけだった。

みなに雪解けが訪れることを。


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