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2月の春の音

昨日休みだった私は、少しけだるい気持ちを抱えて今朝、会社に出勤した。

ふと施設の正面口の近くを通ると、一昨日まではなかった淡いピンクの桃の花が、茶色と白のまだら模様の花瓶にひっそりといけてあった。

高さは30cm程度。まっすぐと背筋を伸ばした枝にポップコーンのようにちりばめられた桃色がこちらに語りかけている。

私もそれにならって背筋を少しだけ伸ばす。


とんとんとん


利用者さんと話していた。「お子さん卒業なんだって?」
「そうなんです。3月で卒業で・・・あ、そうか!私、子どもの卒業式の服ばかり気にして自分が何を着るか全然考えてなかった。」
「あら、じゃあ、卒業式もそうだけど、入学式でも着れるやつがいいわね。」
「ああ、入学式!」

入学式・・って入学式か。完全に忘れてた。卒業すれば入学する。当たり前だ。入学式なんて久しぶりだ。
私の頭の中に淡いピンク色と日の光が差し込んでくる。想像する。
まだ寒さを少しだけ感じるが、あたたかい風に吹かれて、通学路にはきっと桜が咲いているだろう。制服を着た子どもと、一緒に並木道を歩く。制服は今後の成長を鑑みて、少し袖丈が長めで、ゆったりと大きな布に包まれた新一年生達はどこか幼く、ぎこちなく、遠慮がちで、緊張している。

おだやかな風が吹いてどこからか音が聞こえる。


とんとんとん


99歳の利用者さんの認知機能のテストをしている。

「ここにあなたの好きな文章を何でも良いから書いて下さい。」

「何でもいいのね。」と話すやいなや、迷わずさらさら書き始める。途中でペンを止める。顔を上げて、上をみつめる。少ししてまたさらさら書き始める。

東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ

菅原道真。

「どういう意味なんですか?」と私は知らないふりをして尋ねる。

「知らないの?今の人はしょうがないね〜。
遠くに行ってしまうけど、私がいなくてもちゃんと梅の花は私を忘れないでいてねってことよ。春を忘れずに届けてねっていう思いがあるんだね〜」

そうでしたっけ〜?なんて言いながら話を聞く。

「私はこのことばが好きなの。両親は結核で早く死んでしまった。おじいさんおばあさんに育てられて、本がたくさん家にあった。その中の1つに書いてあったよ。」

「梅の花はちゃんと覚えている。私も家族や友達が死んでしまったけど、私の中でちゃんと生きているよ。梅の花のように、あんたもここを辞めても、また遊びに来なよ。忘れないでよ。香りを届けて下さい。」

じゃあ、それまで生きてて下さいよ〜なんて冗談めかしながら、私は春が近づいてくる音がまた、一段と大きくなって聞こえてきているのを感じる。


とんとんとん


と、ノックして近づいているのを。


やわらかく確実に歩んできていることを。


知らないふりをしても近づいてきている春の音を。


私はただ聞いている。








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