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月例落選 短歌編 2023年7月号

角川『短歌』の定期購読は既に終了しているため、コーヒー豆を買いに巣鴨に行った折に巣鴨駅前の書店で落選を確認する。投函したのは4月13日。題詠は「新しい」。

「新しい」で以下の三首。

新築の家を諦め去年今年
居抜きの暮らし気楽な燕

新入りが「盛り」盛り重ね人気取り
「盛り」盛り過ぎて幽体離脱

新しい道具ばかりの新世界
道具のしもべ人形ひとがた道具

自分の中での春の関心時の筆頭は駅前の燕だ。今年は第一陣が一月近く前に既に巣立ち、第二陣がモゾモゾしている。毎年、燕の様子を気にしているが、巣立ちを終えた後に別の組がやって来て営巣するのは、ここでは珍しい。今年は第一陣が巣の新築を試みたようだが、結局居抜きで営巣した。ただ、巣立ちの頃、成長した雛が巣に収まりきれなくなって、巣の縁を壊して巣立った。これはこのままでは来年使えないと思うので、来年は今年に比べると少し大変かもしれない。

今の勤務先は4月に新卒の新入社員が配属されるタイプの場所ではない。あくまで空想の話として、いわゆる「盛り」が過ぎて話している本人も誰のことだかわからなくなるほどなら、面白かろうと思っただけのこと。

「盛り」話といえば、生成系AIと呼ばれるものが話題になっている。機械が話を拵えるのだそうだ。そういうことを伝える報道記事に、こういうものが発達すると不要になる仕事なるものが縷々語られていたが、マスコミの記者などその筆頭だろう。しかし、何故か「マスメディア」とか「記者」と書かれた記事にはお目にかからなかった。誰しも自分だけは大丈夫と思う性向を有している所為なのか、ただ馬鹿なだけなのか。

雑詠は以下の四首。

春過ぎて花を蹴散らす砂嵐
大地砕きし人の香を乗せ

顔隠す心安さに慣れ過ぎて
匿名だけの世界の虜に

言葉すら貴方任せあなたまかせの世を迎え
貴方あなたばかりで貴方がいない

怪しげな囁き続く闇夜には
毒を盛り合う椅子取りゲーム

春は大陸から黄砂が飛来する。遥か遠く砂漠の砂が飛来するということに間違いは無いのだろうが、それだけのことなのか。人間活動に伴う何事かが砂漠を拡げているという所為も皆無とは言えまい。だからと言って、砂に乗った人の香は「香」という温もりの感じられるような類のものなのか、そもそも人に温もりなどあるのか。砂塵の印象こそが人の有り様の象徴なのかもしれない。

公共の場でマスクをつけることが標準となって三年が過ぎた。5月にマスク使用が「個人の判断」に委ねられたが、今でも結構な割合の人々がマスク姿で往来している。慣れてしまうと、公共で顔を晒すことに不安を覚えるようになった。

日々の生活の様々な局面で、生身の人間ではないものが発する言葉を相手にすることが増えた。職場ではIT上の不具合は、所定のサイトから「チケット」と呼ばれる対応依頼を送信しなければならない。チケット生成後は、担当者からチャットやメールが飛んで来て、フツーの会話になるのだが、チケット作成が億劫だ。自宅でも、先日、掃除機が動かなくなって、メーカーのサポートに電話をしたら、最初のいくつかの手順で自動音声を相手にしなければならなかった。いわゆる「自動化」で人手を削減することができるので、その分コストを引き下げることができて、サービスを提供する側には都合が良いのだろう。しかし、暮らしが「自動化」されることで、その「自動」に乗らない諸々は切り捨てられることになる。人の暮らしというものは人と人との交渉の上に成り立つものだと思うのだが、人が誰を相手にするでもなく、ただ独り何かの破片のように自動化された世界に漂うことを目指しているかのようだ。人と人との間の交渉で人は人間になる。つまり、社会を営み、そこで価値を創造して命を繋ぐ存在になる。人と人との間が無いままに、ただ生理的な命を維持するだけの存在になったとしたら、それでも人は人でいられるものなのだろうか。

勤め先が同業他社と合併することになった。同業ということは、ざっくり言ってしまえば、規模が拡大するだけのことだ。それこそ、自動化された業務においては、規模の拡大は雇用の拡大を必ずしも必要としない。当然、そこで椅子取りゲームのようなことが起こる。自分はもうすぐ定年なので、今更どうでも良いのだが、そうではない人たちは諸々身の振り方をある程度の覚悟を持って考えないといけない。目に見えて社内の会議や、個別の面談のようなことが増えて、気忙しくなってきた印象がある。自分にとっては他人事なので、ただ面白がって眺めていれば良いだけのことなのだが、人間というのは自分が思っているほど賢くはないということははっきりしている気がする。

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