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関口良雄 『昔日の客』 夏葉社

その昔、東京大森に山王書房という古本屋があったそうだ。その主は関口良雄氏。1977年8月22日に結腸癌のため自宅で死去。享年59。今の自分と同い年。三十代半ばに古本屋をはじめ、それが天職になったのだという。還暦記念に以前から書いたものに新たな随筆を加えて一冊の本として出版することを楽しみに準備を進めていたが、還暦を待たずに旅立たれてしまった。その本がこの『昔日の客』だ。三茶書房のオリジナルではなく夏葉社の復刻版である。

本を読む習慣は無く、ましてや文芸は自分から一番遠いものとの思いもあって、殆ど手にすることがない。そんなふうに本というものに対して初心な所為か、この本そのものの佇まいにも文章にも魅せられてしまった。こんなに心惹かれる本は今まで手にしたことがない。読了した本を改めて手に取ることはあまりないのだが、本書は何度も読み返している。

装幀が良い。布張りの鶯色の表紙とか、その表紙に刻印された書名と作者名の文字、それに対する背表紙の活字のバランスと佇まいがいい。裏表紙と口絵に山高登の版画(夏葉社版では版画を印刷したもの、三茶書房版は版画そのもの)があり、これが印刷でもまたいい。そのいかにも本らしい本の中に、ちょうど読みやすい長さで、しかも深い味わいのある美しい文章が程よく収められている。古書店の店主を志すくらいだから、文芸への興味関心も人一倍強くて読書量が半端ではないのだろうし、書物の値踏みができるくらいの眼を持っている人だ。そういう審美眼を持つ人が書いた文章ならではの魅力を感じる。

「昔日の客」というのは野呂邦暢から関口に贈られた『海辺の広い庭』の見返しに記された墨書きに由来している。

「昔日の客より感謝をもって」野呂邦暢

そして「昔日の客」というタイトルで一編の文章が本書に収められている。

 そんなことがあって間もなく、野呂さんは家の事情で勤めをやめて郷里へ帰ることになった。
 その時、私の店にほしい本が一冊あった。
 それは、そのころ筑摩書房から出て間もない、「ブルデルの彫刻集」という本だった。
 野呂さんは部屋代を払ったり、旅費のことを考えると、本を買う金は千円位しか都合がつかなかった。「ブルデルの彫刻集」は千五百円についていた。
 事情を聞いた私は即座に、それなら千円で結構ですと言ったと言う。
 そんなことは私には少しも記憶のないことで、ただ一方的に聞いているだけだった。

『昔日の客』205頁

一方、野呂の方も関口のことを随筆に書いている。タイトルは「S書房主人」で初出は西日本新聞夕刊、1976年5月13日。手元にあるのは野呂の随筆集『兵士の報酬 随筆コレクション1』(みすず書房)だ。

 何ヶ月か後に私はつとめをやめて九州へ帰ることになった。いくばくかの退職金を懐中に私はS書房へ出かけた。買いたい本は決めていた。あるフランス人彫刻家の写真集である。ちょうど給料の四分の一にあたる値段であったと覚えている。当時は豪華本である。
 私は郷里に帰ることを主人に告げた。彼は黙って値段を三分の二にまけてくれた。餞別だというのである。私は固辞したけれどもいい出したらきかない相手だった。

「S書房主人」『兵士の報酬 随筆コレクション1』332頁

示し合わせて書き合ったわけではないだろう。互いに知らぬままに互いのことを文章に起こし、それらが響き合っている。こういう偶然のような必然というか、必然のような偶然を目の当たりにするのは愉しい。

野呂邦暢という作家のことは『昔日の客』で知った。すぐにAmazonで検索して在庫のあるものを何冊か注文し、届いたもののうちから何冊かを読んだ。いつまでも読んでいたいような美しい文章だと思った。野呂は関口の店で念願の『ブルデルの彫刻集』を手に入れて郷里へ戻り、陸上自衛隊に入隊する。翌年除隊の後、家庭教師をしながら執筆活動を始める。その作品が様々な文学賞の候補になった後、1974年に『草のつるぎ』で第70回芥川賞を受賞。野呂が芥川賞授賞式に出席するため上京した折に、関口の店を訪れ、その手土産が『海辺の広い庭』だった。

類は友を呼ぶ、という。出会い、あるいは縁というものは、たぶん必然なのだ。巡り合うべき人と人、人とモノ、人と出来事があるのだと思う。『昔日の客』を読んで、そんなことを思った。翻って自分はどうか。現実がすべてだ。今更後悔も反省も何もない。

見出し画像は2013年11月末に馬込の大田区立龍子記念館の庭で撮影したもの。山王書房が臼田坂下にあったとのことなので、ここからそう遠くではなかっただろう。大森馬込界隈に関係のありそうな写真を手持ちの中から探したのだが、これくらいしか見つからなかった。あるいは「昔日の客」の内容に因んでパリのブールデル美術館(Musee Bourdelle)で撮った猫の写真も考えたが、その猫があまりにくたびれていたので却下。動物(人間も当然に含む)は寝姿といえども活き活きとしていないといけない。

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Musée Bourdelleの入口ホールの椅子 くたびれているというより、、、

この猫の写真を眺めていたら、長谷川潾二郎の猫の絵を思い出した。2010年に平塚市美術館で開かれた回顧展には二度足を運んだ。平塚というのは箱根駅伝で選手が走るところ、という以外に何も知らなかったのだが、なんとなく出かけてみようと思った。これが大変良かったので、当時は高校生だった娘を誘って改めて出かけた。さらにもう一度くらい行こうかなと思っているうちに展覧会が終わってしまった。

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『長谷川潾二郎画文集 静かな奇譚』求龍堂
2010年開催の「長谷川潾二郎回顧展」の公式図録兼書籍
回顧展は平塚市美術館、下関市立美術館、北海道立函館美術館、宮城県美術館を巡回
平塚での開催は2010年4月17日—6月13日

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