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重衡最期 『平家物語』より

三位中将平維盛のことを書いて本三位中将平重衡のことを書かないわけにはいかないのではないか、と思った。三位中将と本三位中将の違いは知らないが、かたや平清盛の嫡男の嫡男、かたや清盛の四男でいずれ劣らぬ平家本流だ。見出しの写真は奈良の般若寺にある平重衡の供養塔である。撮影日は2019年10月7日。補陀洛山寺にある平維盛の供養塔に比べると新しく見えるのは境内の平地の開けた場所にあって基台が比較的最近のものである所為かもしれない。左側の石碑はたぶん昭和の終わりか平成に建立されたものだ。この写真ではわかりにくいかもしれないが、重衡の「衡」と供養塔の「供」の間に「公」の文字が彫られていたのをセメントのようなもので埋めてある。勝手な想像だが、供養塔の注文を受けた石工は、おそらく注文通りに「平重衡公供養塔」と彫った。しかし、納品の際に
「ちょっとぉ、「公」はダメだよ「公」はぁ。重衡だよ、重衡」
と発注書を書いた人の上司に当たる人からクレームを受けたのではないか。
「えっ、注文書には「公」がついてますよ。ほらぁ」
けっこう上等な花崗岩を使っていて、安易に謝って作り直すわけにもいかない。実際に注文書には「平重衡公供養塔」とある。
「あっ、ほんとだ。どうしようか……埋めてもらえる?「公」」
「えっ?」
「だからぁ、彫った石の破片とか粉とかあるでしょ。それで「公」をね…ちょいちょいとね」
「ちょっとぉ、勘弁してくださいよぉ」
「いや、でも「公」はマズいから…」
なんていうような会話を想像して、むひひと笑いが溢れてしまった。ここは奈良なので、私の頭の中では関西系の言葉でのやり取りが浮かんでいた。しかし、身近な関西人との付き合いの中で、彼らが関西圏での言葉の地域差に妙に喧しいことも知っているので、こういうところには私のエセ関西言葉を書くべきではないとの自己規制がかかって上のような表記になった。

「公」が消されている

重ねて勝手な想像だが、奈良で平重衡「公」がマズいのは重衡が南都焼討の総大将だからだだろう。南都征伐の指揮は大将軍が平清盛の四男である頭中将平重衡、副将軍は清盛の甥に当たる中宮の亮平通盛。南都が何故平家中枢の怒りを買ったかといえば

都では「高倉の宮が園城寺にお入りになったとき、興福寺の大衆だいしゅがこの企てに同意して、さらには宮のおん奈良入りをお迎えにまで参ったのは、つまり朝敵の所行である。それゆえ興福寺も三井寺同様に攻められるべきである」との気運となって、これを察した奈良の大衆はいやはや大変な騒ぎ、こぞって蜂起します。

吉田日出男 訳『平家物語』日本文学全集 河出書房新社 350頁

ということなのである。では何故、高倉の宮を支持することが「朝敵」になるかというと、高倉の宮の父である後白河院が清盛と対立していたからで、時の天皇は安徳天皇、清盛の孫、安徳天皇=清盛であり、清盛と対立するということは天皇と対立、即ち朝敵となるわけだ。高倉院の中宮は平徳子(後に建礼門院)であり、清盛は高倉院の舅でもあるのだが、安徳天皇即位に際し天皇を退位させられたという経緯もあり、高倉院はビミョーな立場であったのだろう。では何故、清盛と後白河院が対立していたかというと…際限がないのである。

ここで肝心なのは重衡が南都焼討の総責任者であったということだ。このことは後々本人の運命にも大きく関わってくる。

 頭中将重衡卿は二十九日に奈良を滅ぼして京都へお帰りになりました。憤りも晴れて喜ばれたのは入道相国です。いかにも、いかにも。しかしながら喜ばれたなどというのは入道相国ただ一人。中宮も後白河法皇も高倉上皇も、それから摂政の基道公以下の人々が、歎かれる、ああ嘆かれる。「悪僧を滅ぼすとしても、寺院をも破損して滅ぼすなど。そのような方術、あり得ようか」と歎かれる。当初は衆徒の首はまず大通りを引きまわして、それから獄門の木にかけるということであったのですけれども、なにしろ東大寺と興福寺が滅んでしまったことへの驚きと歎きとから、もう何の命令もありません。指図がないのなら仕方がない、奈良より持ち帰ってきた首は、あそこ、ここの溝や堀に捨て置かれるのでした。聖武天皇のご自筆の詔書には「我が寺が興福すれば天下も興福し、我が寺が衰微すれば天下もまた衰微するだろう」と書かれてあります。とすれば、天下の衰微することはもう疑いない、とこう見えましたな。

吉田日出男 訳『平家物語』日本文学全集 河出書房新社 355頁

今でも奈良には寺社仏閣が多く立地しているが、当時は今と比較にならないほど人々の心象の中で神仏の位置付けが大きく、寺社仏閣そのもの、そこに安置されている仏像神像への畏れも大きかったであろう。それが一日にして破壊焼尽されたことの衝撃はいかばかりであったろうか。人々が受けたであろう衝撃こそが、その後に続く歴史を大きく変える一つの力になったことは疑い得ない。

南都焼討の翌年、治承5年閏2月4日、清盛が没した。独裁者がいなくなると、その独裁権力が強かったほど、反動も大きくなるのは自然なことだ。

既に治承4年7月14日に後白河法皇は源頼朝に平氏討伐の院宣を与えている。この仲介をしたのは文覚上人だ。文覚がどういう人物であるかは割愛するが、那智参詣曼荼羅にその姿が描かれている。那智の滝で滝行をするという大胆な修行を試みて気を失ったところを不動明王のお使いである矜羯羅童子こんがらどうじ制多迦童子せいたかどうじに介抱されているという姿だ。

那智参詣曼荼羅(熊野那智大社蔵)室町時代の作とされている
曼荼羅の右端にある滝の下で矜羯羅童子(右の白い方)と制多迦童子(左の赤い方)に介抱される文覚

清盛の死を契機に源氏を核に既に燻っていた反平家陣営が勢力を急拡大。源氏は東国のあちこちで兵を挙げ西へと攻め上る。寿永2年の倶利伽羅峠の戦いと篠原の戦いで平家は兵力の大半を失い、同年7月25日に安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちる。一方、平家を都落ちさせた源義仲は戦に勝っても、それで得た土地を統治する術は持たず、後白河法皇とも対立するに至る。後白河法皇は源頼朝を頼り、義仲は寿永3年1月、宇治川の戦いで頼朝が派遣した範頼、義経率いる鎌倉軍に攻められて滅んだ。

平家は源氏同士の抗争の間に勢力を立て直し、京都奪回を目指し、かつて清盛が都を開いた福原の一の谷に陣を敷く。平家主力軍を率いる一人が重衡。『平家物語』ではここで後年も芝居や講談、絵画などの題材となるいくつかの噺が語られる。有名なのは結果として勝負の趨勢を決定付けた「坂落」だが、源氏方の河原太郎・次郎兄弟と梶原平三景時・平次景高親子を描く「二度之懸」、やはり源氏方の熊谷次郎直実と平山武者所季重の先陣争いを描く「一二之懸」、平家方の主要人物の最期を描く「越中前司最期」、「忠度最期」、「敦盛最期」などなど。そして「重衡生捕」だ。

一の谷で平家は防戦側とはいえ当初優勢だったが、義経の鵯越からの坂落としで意表を突かれ自壊する。

 本三位中将重衡卿は生田の森の副将軍であられたが、その軍勢はみな逃げ失せた。ただ主従二騎になられていた。三位中将のその日の装束は、褐の地に黄の染め糸で岩に群がる千鳥を刺繍した直垂に、紫裾濃の鎧を着られているというもの。そして、「童子鹿毛」という評判の名馬に乗っておられた。従う者は乳母子の後藤兵衛盛長で、こちらは滋目結の直垂に緋威の鎧を着て、三位中将が秘蔵しておられた「夜目なし月毛」という馬に乗っていた。その馬を三位中将より預けられていた。
 追われたてまつっていた。
 梶原源太景季と庄の四郎高家が、あれは平家の大将軍に違いないと目をつけ、鞭鎧を合わせて馬を飛ばしていた。
 渚には助け船が幾艘もあったが、後ろから敵が追い迫り、船に逃げ乗る余裕がない。湊川を、苅藻川を、走らせた馬で渡られる。蓮の池を右手に見、駒の林を左手にし、板宿を、須磨をも走り過ぎ、西へ、西へと逃げられる。三位中将はなにしろ比類なき名馬に乗っておられるし、追う側もそうと知る。梶原源太景季は、すでに戦場で走り疲れさせた自分たちの馬では追いつけまい、とそう断じ、しかも間がどんどん開いたから、鎧を強くふん張って立ち上がり、「もしや、万一にも」と遠矢をじゅうぶんに引き絞り、射つ。
 上向きに、射放つ。
 弧を描き、飛ぶ。
 すると三位中将の馬に当たる。その馬の、尻のほう、高く背骨が盛りあがった部位に、深々と刺さる。馬が叫ぶ。馬が悶える。馬が弱る。それを見て、三位中将に従う乳母子の後藤兵衛盛長は、自分の馬がとりあげられるに違いないと思ったのか、鞭をあてる。
 鞭をあてて逃げる。逃げ去る。主に乗り替えられないようにと、そう思っているのか。
「なんと、盛長、盛長!」三位中将がこれを見て言われる。「年ごろ日ごろはそんなふうには約束していなかった。重衡を見捨てて逃げるなど。どこへ、この私を見捨ててどこへ!」
 三位中将は声高に言われる。
 後藤兵衛は聞こえないふりをする。わざと。それどころか、鎧に付けてあった平家の赤印をかなぐり捨てる。ただ逃げに逃げる。
 三位中将はお一人。敵は近づいている。馬は弱っている。海に乗り入れられるが、沈もうと図っても沈まない——遠浅の海は水底へと没して死なれぬことも許さない。三位中将は、馬から下り、鎧の上帯を切り、胴を吊るした高紐を外し、着用した鎧兜を脱ぎ捨てて、腹を切ろうとなさる。
 今、切ろうと。
 そこに庄の四郎高家が、梶原源太よりも先に、鞭鎧を合わせて馳せ来たる。「——いけません!」と、急ぎ馬から飛び下りる。「ご自害など、そのようなこと! さあ、どこまでもお供いたしましょう」
 庄の四郎高家は自分の馬に三位中将を担ぎ乗せたてまつり、鞍の前輪にそのお体を縛りつけ、自らは予備の、乗り替えの馬に乗って自陣に帰る。

吉田日出男 訳『平家物語』日本文学全集 河出書房新社 597-599頁

家来に見放され、追い迫る敵を前に一人きりになり、自害もできず、捕縛される。源氏側、その背後の後白河院の、目下最大の戦争目的は平家側にある三種の神器の奪取である。重衡は清盛の四男、本三位中将、平家中枢の人物だ。土壇場でお付きの家来に見放されたけれど。いざとなると大抵の人は冷たいものだ。仕方あるまい。源氏側としては恰好の取引材料を得た。重衡は中御門なかみかど家の藤の中納言家成卿の八条堀河の御堂に幽閉される。そこへ、後白河院は五位蔵人の左衛門権佐藤原定長を使わす。本三位と五位とでは直接言葉を交わすことができないほどの身分差である。

「院のおおせですが」と定長は申した。「屋島へ帰りたいのならば、平家一門の方々へ申し送り、三種の神器を都へお返したてまつるようにせよ。そうすれば屋島へ返す——」

吉田日出男 訳『平家物語』日本文学全集 河出書房新社 625頁

先の大戦での敗戦処理では、昭和天皇も三種の神器の安全に心を砕いたという。三種の神器が文物としてどれほどのものであるのか知らないが、日本というクニにとっては共同幻想の核のようなものなのだろう。しかし「共同」とはいえ幻想は儚い。『平家物語』ではこの後白河院の条件を平家側では真剣に検討したものの結局は拒否する。重衡は出家を申し出るが、後白河院は「頼朝に会わせた後ならば」とする。そこで重衡は、せめて長年師弟の関係である法然上人にお会いして後世のことを話し合いたいと言うと、それは許可されて法然が八条堀河に招かれた。ここで重衡は法然から戒を授けられた。その地に今、石碑が建てられている。コンビニの駐輪場の片隅に位置しているが、かなり存在感がある。以前、東寺にお参りして、京都駅へ歩いていると信号待ちの時に気づいて「へぇ!」と思った。

こちらの石碑には最初から「公」の字は無い
撮影日:2021年10月3日

この後、重衡は鎌倉へ送られてて頼朝と対面する。その後、身柄は奈良へ送られ、そこで首を刎ねられて、首は般若寺門前で晒され、今は境内に供養塔がある。南無。

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