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長谷川櫂 『俳句と人間』 岩波新書

長谷川の書いたものをこのnoteで取り上げるのはこれが2冊目だ。今のところ、長谷川の本は他に読んだ記憶がないのだが、これら2冊に関して言えば、長谷川は熱量の大きい人との印象を受ける。似たような熱量は梅原猛の本を読んだ時にも感じた。遡及的錯覚をものともせず、信じる道を歩み続ける強さのようなものは、私のような軟弱者にとってはただただ憧憬の対象だ。

尤も、五七五で何事かを表現するには、強固な意志と世界観が必要不可欠であることも確かであろう。たとえば本書での芭蕉の句の解説にただ感心してしまう。

秋深き隣は何をする人ぞ

芭蕉

 亡くなる十日ほど前、九月二十八日の句である。「秋深し」と覚えている人もいるが、それだと、秋も深まった。隣の人は何をしているんだろうという意味になる。さらに何をしていようが自分には関係ないという殺伐たる俗解まで生むことになる。
 「秋深き隣」はこれとまったく異なる。秋の深みにしんと静かにいる隣の人よ。物音一つたてず、何をしているのかと病に伏せりながら晩秋の静寂の奥を探っている。「し」と「き」、一字の違いで俳句の解釈はこれほど違ってしまう。
 この句は杜甫(七一二 — 七七〇)の「崔氏の東山の草堂」最終二行を踏まえる。

 何為れぞ西荘の王給事
 柴門空しく閉じて松筠しょういんざす

 杜甫は安禄山の乱(七五五 — 七五七)の嵐ののち、長安郊外藍田山の崔氏の別荘に招かれた。西隣りに大詩人王維(六九九 — 七六一)の輞川荘があった。王維は反乱軍の長安占領中、安禄山に仕えたことを苛められ、給事中(皇帝顧問)から降格された。西隣りの王維の山荘はなぜ門を閉めて松や竹を封じ込めているのか。憂愁に沈む王維を案じる詩である。
 芭蕉の「秋深き隣」の句は、杜甫の詩から具象物をすべて捨て去って「隣」一字に昇華させている。

74-75頁

字面からどれほどの情報を認識できるかは読む側の責任だ。言葉は原則として相手あってのもので、本来は「私」と「あなた」の間で理解し合えれば事足りる。マスメディアが空疎なのは「大衆」という実態の無い読者を想定せざるを得ないからで、空を相手にしているから中身が空になるのは当然だ。いくら義務教育や「世間」の「常識」というような仕掛けを設けたところで、「私」と「あなた」が全く同じ共通基盤を持つことはできない。その溝をどこまで埋めることができるか、というところの能力を知性とか感性などと呼ぶのだろう。「私」も「あなた」も不定形であるのだから、共通基盤構築は絶え間のない意識的な作業であるはずだ。そういう意味では知性や感性は人として生きる意識そのものとも言える。

それにしても、この句で「隣」の一字に昇華されていることがわかり合える関係というのはなかなかない気がする。俳句であるとか詩を詠むというのは、そういうことなのかと背筋が伸びる思いがした。

他に、本書では平家物語から平知盛の最期が取り上げられている。

このとき知盛のいう「見るべき程の事は見つ」は後世まで轟く一世一代の名台詞。平家の栄華も敗軍の無残も、この世で経験できることはほぼし尽くしたと一応、型どおりに解しておいていい。ただそう簡単な話でないことは、すぐにわかるだろう。一言付け加えておけば「見るべき程の」の「程」の一字で台詞も知盛自身もずいぶん恰幅がよくなった。

126頁

「見るべき事は見つ」と「見るべき程の事は見つ」とでどれほど意味が変わるものか。なるほどと、ただ感心するのである。還暦を過ぎるほど生きてきたというのに、こんなことを考えたことが今まで無かったことに呆れつつ、感心するのである。この知盛の台詞は壇ノ浦の合戦がほぼ終わりかけ、平家の敗戦を見届けた上で自ら入水する段で発せられたもの、ということになっている。

平知盛は清盛の四男、時に34歳にして中納言である。平家総領は兄である宗盛。平家物語では総領でありながら今一つ肝が座らない人物として描かれている。知盛は父清盛の全盛時代から、清盛没後、少し頼りない兄の下、後白河院の巻き返しの中で一門の没落、それに伴う家人や連合・同盟相手の謀反や寝返りを目の当たりにし、自分自身も息子知章を見殺しにする一方で愛馬を助けたりというようなちぐはぐを犯したりしながら、いよいよ命運が尽きようとしている。

  住馴れし都の方はよそながら袖に波こす磯の松風

 知盛が屋島で都を慕って詠んだという歌(『源平盛衰記』)。和歌の伝統に則るから生の感情はきれいに抜け落ちているが、都で討ち死にすればよかったという、今となっては取り返しのつかない悔いが胸のうちで疼いている。
 こうなったからには行き着くところまで行くしかない。そしてたどり着いたのが壇ノ浦だった。都落ちから二年、もっと早くやるべきだったことがやっと果たせる。「見るべき程の事は見つ」は知盛の断念と悔恨の果てに口を衝いて出た言葉だっただろう。

131頁

知盛は最期を前にして妙なことをしている。まずは当たり前に自軍の兵を前にして訓示をする。

「戦いは今日が最後となる。これが最後だ、者ども。少しも退く心を持つな。たとえば天竺や震旦のまたとない名将も、運命が尽きればそこれまで。たとえば日本わが国に並ぶ者なき勇士も、運命が尽きればどうしようもない。しかし、なんといっても名は惜しいぞ。者どもよ、その名を汚すな。東国の連中に弱気を見せるな。わかるな、命を捨てるべきは今。今!惜しんでいて将来に役立てられるものではないのだ、お前たちのその命は!知盛が願うところは以上である」

古川日出男訳『平家物語』河出書房新社 732頁

そして合戦の趨勢がほぼ決した頃、知盛は安徳天皇の御座船に参る。

 参られて、口を開かれる。
「平家の世も、もはや最後と思われます」と断じられる。「さあ、見苦しいものは全部、この海にお棄てください。海中に」
 知盛卿は、御座船のその中を艫へ、舳先へと走りまわられる。掃いたり、拭いたり、塵を拾ったり、お手ずから掃除なされる。その男が—知盛卿が。
御座船にいる女房たち、身分ある女性たちが尋ねられる。口々に「中納言殿、それで戦さは」と尋ねられる。「どうなっているのです。戦さの行方は」と訊かれる。
 女たちが、戦況は、と。
「行方でございますか。まもなく、珍しい東国の男たちをご覧になれるでしょうよ。さらには契りをも結べますでしょうよ。たとえ船上でも」
 答えるや、からからと笑われた。
「どうしてそのようなご冗談を、今!」
 女房たちは悲鳴をあげられる。

古川日出男訳『平家物語』河出書房新社 740-741頁

この後、二位尼が孫である8歳の安徳天皇を胸に抱いて入水する。その様子も「見るべき程のこと」の一つであったのだろう。

本書で印象に残ったのは芭蕉の句と知盛の話だった。『徒然草』の話についても何か書こうかと思ったのだが、長くなりそうなのでやめた。今の自分の中では『徒然草』と『平家物語』がいわゆる座右の書で、それらをネタにいくらでも何か書けそうな気がするのだが、しかし、本当に思うことは腹にしまっておいた方が良いような気もするのである。結局、生きることは労苦であり、楽というものはできないものなのだと、思うより他に今はどうすることもでできない。楽をしたら楽しくなれない、と自らを慰めてそう長くもない余生を呑気に生きていくのだろう。

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