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『後拾遺和歌集』 久保田淳・平田喜信 校注 岩波文庫

どのような芸事にも基本になる規定演技のようなものがある。落語の場合も例外ではない。柳家では「道灌」という噺がそれにあたる。入門して最初に稽古する噺がこれだという。なぜその噺なのか、ということについては全く知らない。

落語には和歌がけっこうよく登場する。「道灌」には『後拾遺和歌集』に収載されている中務卿兼明親王の

小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせ侍りけり、心もえでまかりすぎて又の日、山吹の心えざりしよしいひにおこせて侍りける返りにいひつかはしける

ななへやへ花は咲けども山吹のみのひとつなきぞあやしき
(582頁)

という歌が登場する。但し、最後の「あやしき」が「かなしき」になっている。どちらがどうというのではなく、写本が伝搬する中で何通りかの歌ができてしまったということなのだろう。都電の面影橋の電停の近くに「山吹の里」という碑がある。その碑の隣に立っている説明板にはこのようにある。

新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩に出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会』(正徳二・一七一二年)などの文献から、江戸時代中期の十八世紀前半には成立していたようです。

「悲しき」だ。「悲しき」と「あやしき」とでは意味がだいぶ違うが、古歌=教養として知っているべき歌を太田道灌が知らなかったことを恥じて和歌の勉強に励んだというところが肝だ。それが落語、しかも前座噺で語られるということは、演芸を楽しむ一般大衆がこの故事を当然に知っていたということでもある。今は和歌・短歌が何だか特別なものになってしまった感があるが、それこそ悲しきことだ。

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碑のほうも、マンションの工事で当座は塀に囲われて悲しいことになっている。

ところで、『後拾遺和歌集』は勅撰和歌集だ。天皇や上皇の命によって編纂されたということは、国家事業とも言える。国家事業として歌集を編纂するとはどういうことなのか。私にはわからない。恋人との別れが悲しくて涙で袖を濡らしました、というような歌がたくさん収載されている。この岩波文庫版には1218首と異本歌11首の都合1229首が納められている。このうち228首が恋歌とされているが、雑歌の中にも色恋を歌うものはあり、そう考えるとかなりの割合になる。色恋や花鳥風月がいけないというのではないが、それを字義通りに受け取ってよいものなのだろうかと不安を覚えるのである。国家事業で編纂する歌が単に色恋だの花鳥風月のわけがないと思うのは下卑た感覚なのだろうか。字面の裏に語られている和歌の本当の意味、というようなものがある気がしてならない。

補足:太田道灌の「山吹の里」とされる伝承地は、この東京都豊島区高田一丁目の他に、荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などいくつもある。

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