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臨終図巻 59歳

年齢の替わり目になると山田風太郎の『人間臨終図巻』に手が伸びる。58歳は難なくやり過ごし、無事満59歳を迎えた。来年は還暦だ。

『図巻』によると、58歳で亡くなったのはシーザー、杜甫、菅原道真、マキャヴェリ、黒田如水、尾形光琳、岩倉具視、黒岩涙香、種田山頭火、阿南惟幾、溝口健二、高見順、中川一郎。山田が何を思ってこの人たちを選んだのか知らないが、何となく志なかばで倒れた感がある。そう言う意味では58歳というのは、死から少し距離を感じる。

これが59歳となっても、司馬遷、モンテーニュ、クロムウエル、スタンダール、柳亭種彦、ハイネ、コント、フローベル、マゾッホ、孫文、徳冨蘆花、田山花袋、ジョイス、山本五十六、中里介山、本間雅晴、徳田球一、辻政信、五味康祐と、58歳の人々とあまり印象が変わらないが、大きな仕事を成し遂げて逝った風がないわけでもない。私は個人的にここに桂枝雀を加えるのだが、あと10年とか20年とか長生きしていたとしたら、その後にどんな仕事を残しただろうかと惜しむ気持ちを禁じ得ない。つまり、「まだまだ」な感じを受ける。そう言う意味で、やはり死からは少し距離を感じる。

一般に「平均寿命」と言われているものは、正確には0歳時における「平均余命」である。厚生労働省が毎年公表している生命表の中に記載があり、直近では令和3年7月30日に「令和2年簡易生命表」が公表されている。それによると令和2年は男性の平均寿命が81.64、女性が87.74で、前年に比べそれぞれ0.22、0.30ずつ伸びている。注意しなければいけないのは、繰り返しになるが「0歳児における平均余命」だ。同じ表で男性81歳の平均余命は8.82、つまり89.82歳なのである。それは感覚として理解できるだろう。それまでに病気や事故で亡くなってしまう人が余命の算出対象から脱落していくのだから、生き残った人の余命は0歳児の平均より遥かに上をいく。

同生命表によると、59歳男性の平均余命は25.07年、つまり84.07歳なのである。0歳児時点の平均に対し2年半ほど伸びている。齢を重ねていくと、逃げ水のように少しずつゴールが先に伸びる。「もう何にも不安なんかない。今サイコーにシアワセ」という人にとっては、そういう状況が少しでも長く続くと感じられて結構なことなのだろうが、暮らしを立てるのに四苦八苦している身としては、こういうのはちょっと嫌な感じがする。

加藤九祚の『シベリアに憑かれた人々』(岩波新書)にはこんなことが書いてある。

むかしスキタイ人は六十歳を人生の極限と考え、それ以後は余生として、元気なうちに同族によって羊肉と一緒に煮て食われることを光栄と考えていた。(加藤九祚『シベリアに憑かれた人々』岩波新書 98頁)

「むかし」と言っても相当な昔のことであろうが、そういう雰囲気がわからないでもない。人が役割意識を持つことで社会とか家族などの共同体での地位を確たるものにしているということは、おそらくどの社会にも共通のことであろうから、最後に同族の栄養として自らを提供するのは理にかなっている。そういう人生の終わり方を良しとする考えがあることに何の不思議もない。

かといって、自分がそういう最後を選択したいと思うかどうかは別の問題だ。尤も、ここから先の20年も30年も、ある程度健康に生きながらえるとしたら、あっという間のことだろう。それなのにこんなふうな毎日を過ごしていて良いものかどうか、少しは悩むのである。また、少しは憂鬱にもなるのである。わずかばかりの金銭のために、しょうもない仕事をしょうもない人々と共にしているというのは生命に対する冒涜としか思えないのである。しかし、さんざん冒涜を重ねて今更それをどうこう言うのも理不尽だ。冒涜ついでに最後まで冒涜を重ねてこそ自分に相応しい生き方であるのかもしれない。そんなことをうじうじと思いながら今日も日が暮れる。


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