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葛飾北斎と永六輔の意外な共通点【江戸の街歩き】

ふと見つけた北斎の墓

土曜。合羽橋での買い物からの帰り道、元浅草付近を歩いていたら、旧跡の看板が目に入った。「葛飾北斎の墓」とある。

北斎は大好きで、生家跡に建てられた墨田区にある北斎美術館は訪れたことがある。でも墓がどこにあるかは知らなかった。なんと、家の近所だったとは。

お詣りしようと寺に入っていくと、墓所の入り口でご老人に声をかけられた。ちょっとよく聞き取れなかったので、「北斎さんのお墓に」と言うと、こちらです、と案内をしてくれた。この寺(誓教寺)のご住職とのことだった。

住職は丁寧にいろいろ説明をしてくださった。亡くなってからの墓ではなく、ここは元から北斎の家の菩提寺だということだった。

墓標には「画狂老人卍墓」(「卍」は北斎の雅号の一つ)とあり、辞世の句が刻まれている。

「このあたりは寺が75もあるんですが、3月11日の大空襲でボコボコにやられたんですよ。おかげでどこも建て直して寺はほとんど鉄筋になって空調完備になりましたけどね」と住職。

「すぐ近くに永六輔さんのご実家の寺もありますが、ご案内しましょうか」とおっしゃる。そういえば永六輔さんは浅草の寺の息子であることが有名だった。永さんファンだったこともありご案内いただくことにした。

ちなみに永六輔さんをご存じない方のためにネット記事を引用する。

大ヒット曲「上を向いて歩こう」の作詞、放送作家、ラジオパーソナリティーや、ベストセラー「大往生」でも知られる永六輔さんが、7月7日に肺炎のため83歳で亡くなった。エンターテインメントの世界で多岐にわたって才能を発揮し、日本人のメンタリティーを支え続けてきた人だった。

日刊スポーツ(2016.12.28)より、リンク下記

私にとっては「浅田飴」の独特な語り口のCMが耳に残っている。ハキハキした洒脱な口調は「浅草生まれ」と聞いて大いに納得したことを覚えている。ベストセラー『大往生』や、明るく老いて死ぬをテーマにしたエッセイなど、死に方老い方の指南役だった。今年で没後8年ということだが、その間、日本の高齢化社会はさらに加速した感がある。今こそ永さんのメッセージが求められているのかもしれない。

住職の案内で永氏の墓へ

75歳だという住職は、お年のわりには足がおぼつかない感じだったが、毎日北斎の墓に来た人を案内するのを日課にしているらしかった。

住職の案内で、思いがけず元浅草の寺めぐりと相成った。こういう流れ、いかにも下町で、嫌いじゃない。

北斎の寺から5分ほど、ずらりと寺が建ち並ぶ通りに案内された。といっても、ぱっと見は住宅街である。しかしよく見ると各家には寺の看板がかかっている。

その中の一つが、永六輔さんのご実家の寺「最尊寺」だった。

一見普通の住宅のような寺

浅草ゆかりの2人のクリエイター

最尊寺の右も左もこんな感じで寺だけど家のようなので、住職に「お墓はどこですか?」と聞くと、最尊寺の向かいにある共同墓所に案内してくれた。

いくつかの寺院の墓が集まる共同墓地を案内いただく。

共同墓地の一角にある最尊寺の墓所。

入り口正面にある永六輔氏のお墓

住職は永さんとご近所のよしみで親交があったらしく「また来たよ」と話しかけていた。

墓碑には永さんの作詞で世界的な大ヒットとなった通称SUKIYAKI SONG「上を向いて歩こう」のフレーズが彫られていたが、その下にもう一つの碑があり、そこにはこう書かれていた。

生きているということは 誰かに借りをつくること 
生きていくということは その借りを返していくこと   永六輔

人は「生きている」だけだと借りたまま、でも「生きていく」ことでやっと借金がなくなる、という意味にもとれる。「生きている」と「生きていく」は違うのだ。

そして「借り」という表現が、なんとも江戸っ子らしい。人との付き合いを大切にし、人の中で生きてきた、永さんの生き様がわかる墓碑銘だと思った。

葛飾北斎をたどったら永六輔に行き着いた。このふたりは浅草という地縁こそあるが、時代が違う。でもその共通項と言えば、世界に名を残す希代のクリエイターであること、長寿を全うし、老いてなお活動をし続けたことだ。

クリエイティブで、長生き。シニアの生き方のひとつのロールモデルが、ここ浅草の地に眠っていた。


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