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「本当の海底橋をさがせ」②~海の底まで~



あこがれた「海底橋」。



うん。

みんな、知っているよね


でも




「海底橋」ではないかも。


じゃあ、この「橋」は?



海の底まで





「海底」

地名です。愛川町の。

愛川町民にとっては「愛川町には海の底があるんだぜー」みたいなネタになりつつあります。

僕も愛川町に来たばっかりの時「おいおい。<うみそこ>かよ(笑)」と思ったもんです。

「海底」とかいて、「おぞこう」、と読みます。「おぞこ」という人もいるけど、長い地名の歴史の中では誤差の範囲でしょう。

愛川町役場の公式なものでは「おぞこう」です。

「海底橋」の前に「海底」を知りましょう。

あ。「海底橋」ではないかもしれないので「海底橋(仮)」とでもしておきましょう



たった一人の「海底橋」捜査会議がスタートです

まずは「現場」である「海底」

当然、アトランティス大陸的に「海の底」にある地域ではありません



愛川町の南部で厚木市とは山で隔てています。

今の住所でいうと角田です。



赤い円が海底地区。水色の線が中津川。★が「海底橋(仮)」です。
やはり「海底橋(仮)」が海底地区から離れていることがわかりますね

海底上、海底下、海底坂上、尾形山、金山などの総称が「海底地域」。

「海底下」と字だけみると、「底の下ってどこやねん!」と突っ込みたくなりますが

海底地区にある日月神社の社殿棟礼には「海底村」の記述もあります。この場合の「村」は現在と意味合いは若干違い「集落」の意味に近いでしょう。

「海底」となったのは「貝殻の化石が出土したので」昔の人がここは海の底みたいだな、という説があります。

まあ、そうなのかな、と私は思いますが、

でも。

当時の愛川町の人たちが石になった貝殻などを見て「ここは海の底か!」と想像たくましくできたのか疑問です。

当時の愛川町の人たちは海から遠い遠い場所にいましたしね


となると、「海」には別の意味があると考えると

例えば、こちらも海がない長野県には、八ヶ岳東麓には「小海町」をはじめとして,海ノ口,海尻など地名に「海」がつく地域名が多くあります。

これは千曲川が土石流でせき止められ、その時にできた現在はない「湖」の名残です。「海」を見たことない人々にとって、「湖」が一番近い「海」のイメージであったのでしょう。

「海底」の「海」もこれに似たことではないでしょうか?

今の海底地区を見ると、眼前に中津川があり、背後には山が屏風のように囲っています。

中津川が氾濫するとこの地域は大きな湖のようになる事が多かったから「湖の底の村」で「海底」。

または、もともと湖があった場所が周辺山麓の崩壊により埋め立てられ、その上に村ができた「元・湖の底にできた村」で「海底」。

そう考えるとしっくりくるような気がします

永禄2年(1559年)の小田原衆所領役張(北条氏康がつくる)に「小曽郷」がみえ、これがいつの間にか「海底」と合わさり、地名の読みである「おぞこう」の起こりと言われています。

なぜに「海底」と「小曽郷」が結びつくのか。その接着面がいまいちわかりませんが、「海底」が地元の人間の通称で、「小曽郷」が官の登録地名で、二つ併記していたものがいつの間にか一緒になってしまったようなことでしょう

「小曽郷」とは「カワウソの住む里」という意味の地名。江戸時代の寛政年間(1789~1801)に信濃国で製紙を習得して「海底紙」を始めます。主に楮(こうぞ)を使って障子紙や襖紙などで利用され、のちに京都の嵯峨印所御用の紙を漉くまでに発展したました。


と、

海底地域を、僕の多少な邪推も込みで、見てきました。

かなりの寄り道をしましたが、もう一度地図を見てみると



「海底」と「幣山」の間には「金山」「向山」「丸山」と山がありました。

これだけの山に隔たれば「海底」と「幣山」や物理的にも精神的にも全く別の集落です。

「幣山地域」が修験道集落であったことを下地にすれば、「幣山地域」のベクトルは修験の「石神社」や「八菅山」で、「海底地域」とは真逆の方向をむいています

となると、「幣山」にある橋に「海底」とつけるのは、確かに「修験道全盛期」と「橋を造る」では大きく時代が違いますが集落の人々の気持ちの奥底に刷り込まれているとして、「幣山側」にも「海底側」にも理由も利益もないでしょう。




この橋には「海底橋」とつけるいわれがない。

大きく迂回をしながらここまできました。

となると、この橋の名は?

次回、その「答え」をまとめて行きます


<つづく>

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