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「本当の海底橋をさがせ」④~忘れられた海底~

僕の親愛なる友達を紹介します



「赤橋」君です。



「海底橋」君ではありません。


なんだかんだで

「ネット海底橋」≠「ほんとの海底橋」

ということがわかりました。

よかった。よかった。

いつか「赤橋」が検索でひっかかるといいですね。がんばれ。赤橋。

となると

次は、宙ぶらりんとなった「海底橋」です。

この名前を本当の持ち主に返さないと。


忘れられた海底




ネット検索で「海底橋」とカタカタうつと「赤橋」が恥ずかしそうに出てきます

そうなると「海底橋」をみつけるのは難しいのかな?

と半ばあきらめていましたが

意外とあっさりご対面。


平成27年に愛川町は新町発足60周年でした。この時に発行されたのが



どーんと三増合戦の碑がでている「広報あいかわ 新町発足60周年記念特集号」。

この特集号のページをめくると



「写真で振り返る愛川町・60年の歩み」があります。

ここに



いました。「海底橋」。



こちらが、愛川町の海底地区と戸倉地区を結ぶ中津川に架かる橋・「海底橋」です。

同じカットの写真が「故影拾遺Ⅱ」にも載っています


「故影拾遺Ⅱ」(135ページ)

立派なつり橋です。橋の主塔に万国旗が見えるのは(見づらいですが)、この写真が「海底橋竣工式」で撮られた写真だからです。
「故影拾遺Ⅱ」には「昭和8年(1933)12月」とあります。これが、「海底橋」が生まれた日ですね



こちらも「竣工式」から。「故影拾遺Ⅱ」に掲載されていない写真ですが、当時の愛川町としては盛大な竣工式だったようですね

地図を見ていきましょう
おなじみ心強い味方<時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」>から



1980年代に角田大橋が完成をすると、海底橋が姿を消します
赤橋の表記はありますね




1990年代になり、赤橋の表記もなくなり、現在のような地図になります。

在りし日の海底橋。


航空写真から見て、その存在は大きいです。



「故影拾遺Ⅱ」(135ページ)

昭和54年・海底橋。
車両の通行は一台のみの片側通行でした。
この頃、大雨によって右岸側の橋脚が流れに洗われて、主塔が傾きました。
それを受けて、角田大橋が建築開始。
角田大橋完成後、海底橋撤去。

「海底橋は何度も流された。そして、なくなった」という証言もありましたが、写真を見る限り流されて忽然と姿を消すような橋の規模ではないようですし、「赤橋」との勘違いでしょう



海底橋は今から30年以上前に姿を消しました。

写真や地図からわかるように、もう一人の主人公である「赤橋」と「海底橋」は同時期に活躍していました。

私がいろいろと聴きこむ中で、「赤橋が流されると、海底橋まで遠回りしなくちゃいけないから大変だった」と言う人もいました。

赤橋と海底橋。

どちらも愛川町の住民の生活に密着し、未だに愛川町の人々の記憶残る橋でした。

それがなぜ「赤橋」が「海底橋」となったのでしょうか?

そして、「赤橋」と違い「海底橋」の「痕跡」は残っていないのでしょうか?



まずは、その「痕跡」。

「海底橋」が存在したという3次元の証拠

かすか、ですが、ありました。

<つづく>

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