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70年以上前のことを (愛川町日記 2018年4月30日から転載)

もう2年もたつのか。太平洋戦争終戦の二日前に愛川町中津飛行場から出撃した第398神鷲特攻隊を取材した。僕の取材によって初めて遺族の方は最期の基地をしり、愛川町に貴重な史料を提供し、私も過分なお礼の言葉をいただいた。
ただ、まだまだ様々な謎がある。
あれから2年
もう一度取材しようと思う

一番の謎は「戦死」の場所。
第398神鷲隊に下った攻撃指令は「下田沖に出現した潜水艦」。いわゆる「シャチ特攻」といわれるそうで、確かに当日下田沖に米潜水艦が出現しているようだ。
この潜水艦は日本軍機の攻撃をうけていない。それだけではなく遺族の方の手元には「敵機動艦隊へ突入」とある

この資料により一部では第398神鷲隊が米機動艦隊へ突入したという説も根強く残るが、これは「遺族への配慮」であり、本当は潜水艦への突入命令だったんだろう。
この日の中津飛行場から出撃をした第398神鷲隊は赤トンボ2機。そして、護衛機として疾風がついていた。中津飛行場は疾風訓練基地だが、護衛をつける必要があったのか?
折しも本土決戦が近づくなか飛行機は一機も無駄にしたくないはず。
しかも、資料によれば単座の赤トンボ2機に3人乗っていたという不可解なものもある。厳かな出撃前の儀式があった沖縄戦と違い、「敵鑑発見即出撃」となれば、記録と記憶の掛け違いはある。

今、僕が一番注目する証言は、第398神鷲隊が中津飛行場を出撃した同じ日に「大山に赤トンボが墜落した」という大山にすんでいる人の話だ。
つまり、「潜水艦みゆ」で出撃し、見失い、中津飛行場へ帰還中に大山に追突ならあり得る。しかし、3機とも未帰還で赤トンボはまだしも、疾風まで墜落するかな

ただ1945年8月13日に第398神鷲隊の本多、小松の2名、護衛機の後藤、の3人が中津飛行場から出撃し帰らぬ人になったのは事実だ。
そして、遺族の方は僕の取材以降愛川町に度々来ている。そして、いつも話すのは「本当はどうなんでしょね」
七十数年前のあの日の事、また調べたくなった

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