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「本当の海底橋をさがせ」⑦~物語の始まりに~

なんだか長い旅をしていたような気がします

僕は角田大橋の周辺をうろちょろし、多くの人に会い、資料をめくり、時間をさかのぼりました。

もう一度

物語の最初のページにもどりましょう。


旅の終わりに



物語の始まり。

それはひっそりと幕を開ける。

開演ベルも拍手もない、物語の始まり。



彼の物語は、そんな物語だった。


「赤橋」。

彼の名前だ。

それがいつの間にか



「海底橋」という別の名前を与えられた。

そう。与えられたのです。自分で声高らかに名乗ったのではなく。

ごく一部の人たちから与えられた他人の名前がいつの間にか、大勢に名前として認識される。


「別人の名前を与えられて、生きていく」

あたかも三流のサスペンスのような出来事です。

しかし、このトリックの謎解きは簡単でした。



現在の赤橋の幣山側からの写真です。

もうお分かりですね。

看板です。



時期ははっきりとしませんが、赤橋がまだ現役だったころ、車両を通行止めすることがありました。
その時に「車両通行止め」の看板を、海底橋で使っていたものを使用。「海底橋」の部分をペンキで消して、「赤橋」に置きました。
その看板が今でも残っています。

この看板の「海底橋」の部分は「この橋は海底橋ではない」ことを表しているただ単純な記号だったのに、まわりまわって(無意味な深読みの結果)、「この橋は海底橋です」に変化をしてしまいました。

なぜのような化学変化のようなことが起きたのか。
赤橋が持つ風景に基づいているかもしれません。

舞台を「現実世界」から「ネット」の世界へ移します。

世の中には様々な趣味趣向があります
「廃橋マニア」というのもその一つです。

使われていないのに、その場に姿を残し、保存されないまま在りし日の姿をかろうじて残しているものを探る。
その姿から、往時を想像し、歴年変化を楽しむ。
橋だけではなく、「廃墟」「廃道」「廃村」「廃工場」などもあるそうです。
赤橋が持つ風景はそんな「廃橋」好きの皆さんを刺激したようです。

訪れた人が、この橋の名前を知りたいと思ったときに見える「車両通行」の看板。
ペンキの下に見える「海底橋」の文字。「廃橋」という空間が生みだした勘違いは、

「この橋の名前である海底橋の文字の上に誰かが落書きをしたんだろう」

やがてこの「勘違い」は、廃橋好きのみなさんの手によりネットを中心に拡散。
瞬く間に、「海底橋」の名前が広まっていきます
これが「赤橋=海底橋」の現象を生む根底となりました。

赤橋は周辺住人の生活だけ使われていた橋です。
周辺住人はこの橋が「赤橋」であり、「海底橋」ではない「赤橋≠海底橋」ことを当然知っているし、共通認識であるからこそ「修正」する必要性があまりなく、赤橋に実用性がなくなったため看板をそのままにしておく。


廃橋の人たちと橋周辺住民では「モニュメント」としての橋の存在が大きく違います。
すこし荒い言葉を使えば、周辺の人々にとって「もはや使えない橋の名前などどうでもいい」という気持ちなのかもしれません。

ですが、赤橋の周りは丁寧に住民の皆さんの手で草刈りや保全がされており、名前はどうでもいいとしても、その存在は長年この集落の生活を支えてきた功労者として思い出をともにあります。
ひょっとしたら、この「看板」も含めて、赤橋の風景となっているのかもしれませんね

赤橋は通称であって正式な名前がないというのも
ネット社会は病的な拡散性と上書き力のある事も含めて
「赤橋」と「海底橋」の名前取り違えがおきたのです


この橋は
愛川町の特に幣山周辺では「赤橋」でつたわり
ネットを中心とした幣山を中心とした全国的な範囲では「海底橋」として伝わることとなります(非常に端的な言葉であるがニュアンスは近いと思います)

もうしばらくネットに居続けると、私が確認した限り「2012年」ごろから、「赤橋」の写真で「海底橋」と表記されたブログやホームページが目立ちます。大きな「廃橋検索サイト」でもこの橋は「海底橋」です。


「赤橋」は「現実社会」と「ネット社会」で別々の歩みをしてきました。



これから。
「赤橋」はどうしていけばいいのでしょうか?




少し私の考えを残しておきます。

「赤さびた途中で欠落した橋と海底橋をペンキで塗りつぶされた看板」

これが「赤橋」の現在の姿。


「赤橋」は幣山地区のみなさんが箕輪地区へと移動するために橋をつくった証拠という「生活文化遺産」です。

今の風景は今のまま残しておくことがいいでしょう。

名前の違う看板があることもこの地域の歴史です。

どうしてもならば「実は赤橋でっす」のような看板をもう一枚おけばいい。ですが、決してこの風景に入らない場所におきましょう。

使用不可となっても撤去されないのは「赤橋」がそれだけ地域に愛された存在であった名残ですから。


懸念すべきは、愛川町がこの橋を売り出さないか、という点

愛川町は「愛川町は何もない」「愛川町ってどこ」のような過度なネガティブキャンペーンで自らを売っている。

「名前を間違えられている橋(笑)」と言って売り出さないか。

それは違うのです。

この橋は住宅地にある橋です。愛川町のモノではなく、幣山地区のモノですから、売りに出すべきモノではありません。

笑い話の種ではなく、「幣山地区の生活の証」なのです。

今まで名前を間違えられても何も言わず、この地に居続けた橋・「赤橋」。

「海底橋と書かれたこの橋」と地図を見て
違和感から成長した好奇心を持つ人が愛川町を訪れる。

そこから始まる愛川町幣山地区との物語。

やがて海底地区や海底橋まで物語は広がっていくでしょう。

そう。私の物語の様に。


「赤橋」は物語の一ページにあり続ける橋として

これからもその姿を残していくでしょう。

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