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#30 惚れないわけがない

はじめて田中泯さんを見たのは、百田尚樹さん原作の映画『永遠のゼロ』だった。

スクリーンに映った瞬間、
「誰だろ、この人……」
と、一瞬で目を奪われた。
箔のある目力なのか、佇まいから醸し出される、重い存在感なのか……。
名も知らぬ俳優の演技を追う間に、着流し姿で煙草をくゆらすシーンで、目だけでなく、心ごと奪われた。

紫煙が生きもののように、彼のまわりをたゆたう。
まるで、彼が、その場の空気さえ動かしているかのように。

やばい、この人……。
何者よ……。

そんな思いを抱いたまま鑑賞し、映画館を出てすぐに携帯で調べてみれば、
田中泯、ダンサー・舞踏家、とあるが、なんとも目に飛び込んでくる情報が未知の世界すぎて、わたしは次に書籍を検索し、一冊の本を見つけて声をあげた。

「松岡正剛さんとっっ!」

声をあげた書籍は、編集者の松岡正剛さんとの共著『意身伝心 コトバとカラダのお作法』という本だったのだ。
当時、産経EXという、美しい写真多めの、エッジの効いたコンパクトな新聞をとっていて、産経EX内で「BOOKWARE」という連載を持たれていた松岡正剛さんが好きだったわたしは、表紙に2人の渋い男性が並ぶ『意身伝心 コトバとカラダのお作法』という本に興奮して、すぐに手に入れた。

そして、その本の中には、泯さんが、映画の中で煙を動かした(ようにわたしの目に見えた)わけが書かれていたのだ。

以下、『意身伝心 コトバとカラダのお作法』より引用

~よく「存在感がある」というコトバがありますね。「存在がある」じゃなくて「存在感がある」ということは、そこに立ち会った、あるいは見た人が感じるものだということですよね。この「感」は何かというと、やっぱりうごめくものなんですよ。見えてはいないんだけど、うごめいているものがあるから目が離せなくなる。それに立ち会うことになるわけです。
ぼくが映画に出ると「存在感がある」ってよく言われるんですが、これは「ざまみろ」ですよね。ぼくはそこにいるだけで動いているんだから当たり前だろと思う。それは踊りのものすごく大事な秘密だとぼくは思っています~

至極納得。

わたしは、自分の言葉を持ち、相手に伝わる様に言葉を放つ人が好きだ。
しかも、その言葉の背景に、その人の生き様が見えるのならば、惚れないわけがないのだ。

もうね、惚れましたよ。
がっつり。
なんてカッコいい人なのだろう、って。
だからわたしが、テレビ画面やスクリーンに泯さんが映るたびに、息を止めて、じっくり彼のうごめきを感じようとするようになったことは、とても自然なことなのだと思う。

そんな田中泯さんのフリーライブを、昨日、体感してきた。
人だかりの最前列。
地べたに座って胡坐を組み、泯さんの踊りを間近で体感した時間は、日常からトリップしたような時間だった。

目の前でステップを踏む足のやわらかさ、瞬間、瞬間で変わる目の色、指の先端にまで、神経が通っているかのようの細かな動きと、大胆な動きの狭間で、泯さんの呼吸のリズムをたどってみたけれど、全くできなかった。

はじめて体感するリズムだった。

通り過ぎる風のリズムを捉えることができないように、泯さんの身体が独自の流れの中にいるようで、わたしは、瞬きをするのさえもったいなくて、息をひそめ、目を凝らして、その流れを見つめ続けた。

泯さんの黒いコートは、脱いで片手に持っているときも、それを羽織り共に踊るときも『永遠のゼロ』の中でうごめいていた煙のように、風を含んで膨らみ、ひるがえり、鳥の羽のように羽ばたき、静止し、泯さんとともに表現の中を生きているようだった。

ああ、パーフェクトだ……。

わたしは、人の中にアンバランスな面をみると、魅力を感じることが多いのだけれど、目の前で、踊りの中にいる泯さんは、わたしの目にはパーフェクトであり、ひどく艶っぽかった。
人としても、男性としてもだ。

ここで言うパーフェクトとは、その場の空気、身体、呼吸、回転する脳、視線、思考、音、四肢の末端まで通う神経、全てが自分というひとりの人間を象るものになっている。
そういうものに近い。
自分を操りながら空気さえ創り出してゆく。

目で追ううちに、自然、涙がこぼれた。

身体・精神・魂。
この三つが美しく一体化した、誰でもない自分で、自分を表現しきる。

それは、わたしが求めてやまない姿。
それを目の前で観て、体感する中で、心が震えないわけがなかったのだ。

わたしは、いつも心ばかりを見ていた。
心の状態を知っていれば、大抵のことはクリアしていけると、どこかで過信していた。

実際、心がぐちゃぐちゃになってしまった時でさえ、その状態から目を逸らさずに、じっと見つめ、自問を繰り返してきた。
心がクラッシュしても、共に崩れることなく持ちこたえてくれたわたしの身体を思うと、丈夫な身体に産み育ててくれた両親に、まっすぐに感謝が向かった。
 
けれど、泯さんの踊りを体感して、痛いほどにドキドキと打ち続ける自分の心音を聞きながら、思考が移り変わってゆくのを感じていた。

じっと心を見つめて、その時、その時の心の声に耳を傾けてきたように、これからは、わたしの身体の声も聞いてあげたい。

何度も、何度も、心がクラッシュするたびに、助けてくれた自分の身体を、もっと、ちゃんと見つめてあげたい。

それができたら、きっと、心で答えを見つけるより先に、身体が答えを教えてくれるようになる。
大きな選択の前でひるみそうになることがあっても、こっちだよ、と身体が教えてくれる。
そんなように思えるのだ。

心と身体が自分と共にいる。
それが、どれほど強く美しいことか。
74歳の田中泯さんに、それを教えてもらったような気がしている。

深謝。

前作からのもらいワード……「神経」


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