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美しいものたちへ

◇読了時間目安:約5分(3200字)

Sは規則正しく慎ましく生活しています。

朝起きて、ご飯を食べて、歯を磨き、服を着替えて、仕事に出かけます。仕事が終わればまっすぐ家に帰り、晩ご飯を食べて、テレビをみて、お風呂に入ってから歯を磨き、ベッドで眠ります。

Sはずいぶんと長い間こうして過ごしてきました。

ある日、Sは仕事場で花をもらいました。それはまったく偶然の出来事で、Sだけでなく花をあげることになった本人も驚いていたほどです。

今まで花に興味などなかったSですが、まるで白い鳥がはばたいているかのように可憐で美しいその花に、心を奪われてしまいました。

「美しい。今にも飛び立っていきそうだなぁ」

Sは、早速家に持ち帰り、リビングにあるソファの横にその花を置きました。その花の名前は鷺草と言うそうです。

それからSは、朝起きて、鷺草に水を与え、ご飯を食べて、歯を磨き、服を着替えて、仕事に出かけるようになりました。

ある日、Sは仕事でミスをしてしまいました。とても落ち込み、どこか遠くへ行ってしまいたいとも思ったほどです。

しかし、やはりその日も、仕事が終わればまっすぐ家に帰り、ご飯を食べて、テレビをみていました。テレビを見ながら、Sはぼんやりと鷺草に話しかけました。

「今日、仕事でミスをしてしまったよ。本当につまらないミスだった。でもとても怒られたね。イヤになっちゃうよ」

Sはひとしきり鷺草に話すと、なんだか心がすっきりしたような気分になりました。それからというもの、悲しいことがあれば、鷺草に聞いてもらうようになったのです。

さらに、悲しいことだけではなく、その日にあったことなども話しかけるようになっていきました。Sの毎日はあまり変化のないものでしたが、それでも毎日鷺草に話しかけました。

朝起きて、鷺草に水を与え、ご飯を食べて、歯を磨き、服を着替えて、仕事に出かけます。仕事が終わればまっすぐ家に帰り、晩ご飯を食べて、テレビをみながら鷺草にはなしかけ、お風呂に入ってから歯を磨き、ベッドで眠ります。

ある日、いつも通りSが鷺草に話しかけていると、どこからか美しい鈴の音色が聞こえてきました。その音は弱々しく、よくよく注意をしていないと聞き逃してしまうようなものでしたが、それでも鈴の震える音は確かに聞こえていました。

(どこから聞こえているのだろう)

Sは辺りを見回しました。テレビかとも思いましたが、テレビを消してもその音は鳴り続けています。目を閉じて、音のなる方へ意識を向けます。

「……もいいことあったのね」

Sははっとして鷺草を見ました。

「今日もいいことあったのね」

鷺草が無邪気に言いました。

Sは驚きのあまり心臓が飛び出しそうになりましたが、なんとか落ち着いて、鷺草に聞きました。

「しゃべれるのかい? いつから?」

すると鷺草は言いました。

「分からない。けれど、あなたがいつも話かけてくれたおかげだと思うの。ありがとう」

Sはなんとも奇妙なことがあるものだと思いましたが、それからというもの、鷺草とたくさんおしゃべりをするようになりました。

朝起きて、鷺草に水を与えながらおしゃべりをして、ご飯を食べて、歯を磨き、服を着替えて、仕事に出かけます。仕事が終わればまっすぐ家に帰り、晩ご飯を食べて、テレビをみながら鷺草とおしゃべりをし、お風呂に入ってから歯を磨き、ベッドで眠ります。

ある日、いつも通りソファに座り鷺草とおしゃべりをしていると、鷺草が言いました。

「わたしも外へ出てみたいわ」

Sは少し考えましたが、にこりと笑って言いました。

「そうだね。部屋の中だけだとつまらないものね。じゃぁ、次の休みに公園へ行こう」

鷺草はそれを聞いて大変喜びました。

そして次の休みの日、Sは鷺草を連れて公園へ行きました。大変暑い夏の盛りで、休みの日にも関わらず、公園には誰もいませんでした。

「ここが公園だよ。本当ならいろんな人が遊んだりお散歩したりしているのだけれど、今の季節は暑過ぎて誰もいないね」

Sは鷺草をベンチの端に座らせ、自分もその隣に座りました。

「あれが滑り台であっちがブランコ。そっちにあるのは雲梯(うんてい)だよ」

座っているだけなのに、汗が全身から流れていきました。風も生温かく、ひとひらの清涼感もありません。

しかし鷺草はこのわずかな風に身体をゆらし、美しく震えながら言いました。

「この、今のこれは何?」

鷺草は辺りを見回していいました。もう風は止んでしまったようです。

「これ? えぇっと。さっきの風のことかな? 気持ちよかった?」

Sはまた風が吹くのを待ちました。しかし、風は吹きません。結局あまりの暑さに15分とたたずに、公園を後にしてしまいました。

それからは、朝起きて、窓を開け、鷺草に水を与えながらおしゃべりをして、ご飯を食べて、歯を磨き、服を着替えて、窓を閉めて仕事に出かけます。仕事が終わればまっすぐ家に帰り、晩ご飯を食べて、テレビをみながら鷺草とおしゃべりをし、お風呂に入ってから歯を磨き、ベッドで眠ります。

鷺草はあれからしきりに公園に行きたがり、少しでも風を感じたがりました。しかしこの暑さでは、朝以外に窓を開けることはできません。

ある日、晩ご飯を食べて2人でゆっくりしているときに、鷺草が言いました。

「わたし、風に乗れば飛べるような気がするの」

その日はめずらしく夜も涼しく、窓を開けていました。白く美しい花は夜風でそよそよと揺れています。

「うん。飛べるかもしれないね」

Sは揺れる鷺草をぼんやりと眺めながら答えました。

(飛べたら何をしてみたい?)

言いかけてやめました。

翌日も、朝起きて、窓を開け、鷺草に水を与えながらおしゃべりをして、ご飯を食べて、歯を磨き、服を着替えて、窓を閉めて仕事に出かけました。仕事が終わればまっすぐ家に帰り、窓を開けた瞬間、白い風がふわりと吹き抜けていきました。

(あぁ)

Sはゆっくり振り向くと、そこには主人のいなくなった植木鉢が残されていました。彼女はもう一度空を見上げ、目を凝らしました。すると、遠くの方から何か白いものがやって来ます。ぼんやりとした輪郭は、やがて鮮明になり、それが白い鳥であることがわかりました。

「まぁ、鳥になれたのか」

Sは寂しそうに微笑みながら言った。

「そう。鳥になれたの。鳥になったら、風に乗って、いいえ、風に乗らなくてもどこへだって行けるのよ」

ひんやりとした風がSの頬を撫でていきます。どうやらそろそろ夏も終わりに近づいているようです。

「ねぇ、世界を見たいの」

鷺草は無垢な笑顔でそう言いました。

Sはもっと寂しそうに微笑みながら、何も言わずにこくんと頷きました。

「ありがとう。ありがとう」

こうして鷺草は真っ白な羽をふわりと広げ、Sの目の前で、1回2回大きく周回した後、夜の空に旅立って行きました。部屋には植木鉢と鷺草の香りだけが残っています。

翌日もSは、朝起きて、ご飯を食べて、歯を磨き、服を着替えて、仕事に出かけました。仕事が終わればまっすぐ家に帰り、晩ご飯を食べて、テレビをみて、お風呂に入ってから歯を磨き、ベッドで眠りました。

それから何度目かの夏を終えようとしたある夜、彼女は風の便りを受け取ります。あの少しだけひんやりとした、泣きたくなる優しい風からの便りです。

そこには、鷺草が今も元気に羽ばたいていることや時々海に浮かぶ月の上で、あの白い絹のような羽を広げ、踊っていることなどがしるされていました。

「元気ならいいのだけれど。たまには戻ってくればいい」

便りを聞いたSは、穏やかに微笑みながら月を見上げて言いました。ほの白くも大きく、辺りを優しく照らしていました。

その日からSの毎日は少しだけ変わりました。

まっすぐ家に帰り、晩ご飯を食べて、テレビをみて、お風呂に入ってから歯を磨き、窓をあけて風を感じながら月を眺め、ベッドで眠るようになったのです。

えぇ、もちろん今も規則正しく、慎ましい生活です。


お読みいただき、ありがとうございます。もし気に入っていただければ、今後も遊びにいらしてください。よろしくお願いします。