予選会 -We must go- ③

 立川駐屯地の滑走路は重陽にとって、つい寸前まで広大なアスファルトの平野だった。

 しかし予選会を走る約五百人のランナーの行列に並ぶと、思っていたほど道幅は広くないことがわかる。

「すうぅーーはあぁーー……すうぅーー……」

 いつも通りに。なんて、どだい無理な話じゃないか! と重陽は、緊張に任せるまま大きく息を吸っては吐き、もう一度吸って息を止めた。すぐ前に並んでいる他校の選手──奇しくも青嵐大と同じく予選突破ボーダー上チームの学生だ──が、苛立たしげに一瞬振り向いてからすぐ前を向く。

「──ま。緊張しない方がどうかしてんだよ。ぶっちゃけ、俺はさっきちょっとちびった」

 すぐ後ろに並ぶノブタ主将がそう言ったので振り向くと、彼は重陽の前に立つ選手の背中へ中指を立て舌を出していた。

「えぇ……マジで言ってんすか。パンツ替えました?」

「なに聞いてんだ。んな余裕あるわけねーだろ」

 純粋に「ちびったパンツのままじゃ集中できないんじゃないか」と心配で尋ねたのだが、ノブタ主将は茶化した口調でいつつも重陽の肩をグーで強めに叩いてくる。痛い。

「ナメてもらっちゃ困るぜ。俺もユメタも三年ぶり二回目の予選会だからな。しかも、いろいろありすぎて前のこととかほぼ忘れた」

「せ、説得力がえぐい」

「だべ? あーでも、俺らが一年の頃はまだスタートは全校横一列だったっけ……二列んなる時わりとモメたのは覚えてる。ボーダー上の連中にとっちゃハンデ結構デカいからなあ。ルール変わった頃はまだ、ウチは箸にも棒にもかかってなかったから意識してなかったけど」

「ああ。そういえば……」

 言われて重陽も思い出したが、確かに高三の時に見た予選会は出場チームが横一列に並んでの出走だった。

 それが、今では前年度の成績順で出場チームの約半数が上位半数の後ろに並ばなければならない整列になっている。どうした都合だったかは重陽もよく覚えていないが、何はともあれ三年ぶりの予選会出場となるチーム青嵐大は後列に追いやられ、前列に並ぶチームから比べること約十二メートルのハンデを負う形だ。

「十位と十一位の差、一番小さい時で十一秒でしたっけ。一人当たりだいたい一秒。それで十二メートルっていうと──」

「言うな言うな! 今更んなこと気にしたってしょーがねーだろ!」

 咄嗟に口に出して計算を始めた重陽の肩をノブタ主将がもう一度、さっきよりも強い力でパンチして声を荒げた。

「いつも通りは無理でも、焦って飛ばし過ぎんなよ。とりま気負わず走っときゃイケっから。ポジティブスプリットで末脚利くってお前、マジですげえ武器だかんな! 自信持てよ!」

 頼むぜ不死鳥! と少し照れ臭そうに付け足して、彼は重陽をどついたその拳を今度はぐっと押し付け、真剣な顔つきで前を向くよう促した。

「──はい。お任せください!」

 重陽もまた、前を向き彼に背中を向けて応える。

 途端に、ずしりと肩に重みを感じた。ノブタ主将にどつかれたからというばかりではない。心地よい重みだ。

 高校駅伝の時の心構え──自分がその路を走るためだけの心構えとはまるで違う。この藍より出でて藍より青い青藍のユニフォームを纏った喜久井エヴァンズ重陽は、ひとえに同じインディゴを纏ったチームメイトたちのために走る。そんな自覚がはっきりと胸の内に燃えていた。

 三年間、怪我の多かった自分を見放さずにいてくれた先輩たちに報いたい。似たような境遇で心を分け合ってきた同期に負けていられない。自分を追いかけここまで走ってきてくれた後輩たちを失望させたくない。

 そして何より重陽には、何がなんでもこの先の未来へ連れていかなければならない人がいる。

 位置に着いてえ──。

 拡声器越しの、場の緊張感にそぐわない間延びした声が腹の底に響く。

 重陽は一度大きく吸った息を吐き切って、重心を腹の下にぐっと沈めるイメージで顎を引く。

 そして、雨に湿ったピストルの音とともに箱根駅伝予選会の幕は切って落とされた。

 厚底シューズが一斉に滑走路を蹴る。その濡れた音が、どうっと鼓膜を震わせる。

 選手同士が空けていた間隔はあっという間に詰まり、行列はぎゅっと押しつぶされたように縦へ縦へと広がっていった。熾烈な位置取り合戦の始まりだ。

 インコースを取れば取るほど距離もタイムもロスを最小限にできる。青嵐大のように後列からスタートする羽目になったチームならなおさらである。

 ──思い切って大外を回るか……いや、まだ早い。ここじゃまだ、後ろの一、二年がコースを取れない。

 駅伝と違い、タイムアタックの集団走は圧倒的に後続が不利だ。

 個人戦ならただただ人波を掻き分けて、あるいはアウトコースに出て前へ抜ければいいわけだが、この予選会はそうではない。

 このレースの勝者はただひとりの〝一着〟ではなく、一番短い合計タイムを叩き出した〝チーム〟だ。

 そしてその〝チーム〟において重陽に割り振られた役目は、飛び出していって先頭集団で競り合うことではない。

 自分の後ろに続いている仲間たちが落ちこぼれないよう、ペースメイクをすることだ。

「──ちっ、くっそ」

 駆け引きのつもりで舌打ちをし、スマートウォッチを見た。ここまでのペースは、手元の計測ではあるもののだいぶ遅い。先頭集団の様子を窺うことはできないが、少なくとも今いる後列の集団はどうやらかなりスローペースのようだ。

 重陽は今すぐにでも人波を縫って飛び出していきたい気持ちをぐっと堪え、目の前の背中にプレッシャーをかけた。

 経験上、序盤のペース運びが後半の展開にも大きく影響する。抑え過ぎても追い込みが間に合わず望んだようなタイムは出ない。

 スタート前にノブタ主将が言っていた通り、今の重陽の武器はスタートからゴールまで加速を続けつつもラストでロングスパートの利く、謂わば二段ロケット式の走法だ。

 しかしそれは、決して無尽蔵のスタミナによるものなどではない。単に、長距離を走る上では体型的にその計算で駆け抜けた方が負担が少ないというだけの話なのだ。

 むしろ、体が大きくなりやすい重陽は加速量はあれどもそのトップスピードを持続するスタミナが劣る──要するに、本来であれば短距離向きの人間だ。

 重陽には、自分は良く言えば慎重。悪く言えば臆病な性格であるという自覚がある。

 そして、高三の都大路をきっかけにした度重なる故障がその性格に拍車をかけた。

 自分の限界がどこにあるのか。それが訪れる兆候には、一体どういう反応があるのか。

 このチームで重陽はずっと──走れなかった時も走っている時も、常にそんなことを自問してきた。

 その答え、その結論が、一本一本の取り返しがつかないレースの結果だ。

 トライアンドエラーを重ね、思索と検証を繰り返し、磨き上げて磨き上げて縮めていくものがタイムだ。 

 気合い。気持ち。想い。そんなものは誰にだってある。重陽にだって当たり前にあるし、今まさに走ることができない有希にも、いつだって鮮烈で残酷なあの遥希にでさえ、同じようにあるに違いない。

 だから勝ちたい。純粋な力で勝ちたい。環境も運も何もかもを超えたところで、走っている自分と走ってきた自分とで勝ちたい。

 そんな闘志を体の幹でぐつぐつと煮えたぎらせながら、重陽は集団の中で息を潜めた。

   *   *   *

 声援と太鼓の音に混じって、かすかにスタートのピストルが聞こえた。

 その瞬間、まるで魚群のように形を変えながらもめくるめく速さで前進するひと塊。夕真はその一番の大外に長く筋を描いているインディゴの十一人に、目を凝らし固唾を飲んだ。

「──先頭集団が一キロ二分五十秒のペース。喜久井が……三分と少しってとこか。悪くない。落ち着いてる」

 そう発した夕真の袖を、有希は戸惑いがちに弱い力で引いた。そんな彼の方へ目をやると、有希は少し気まずげに目線をレースへ戻しタブレットを差し出してきた。

『あのペースは遅すぎる』

 彼はそこに端的で不穏な文章を綴っていて、文章を追う目が泳ぐ。

『喜久井さんはここから上げて行けるかもしれないが、後ろは借金が残るペースだ』

「……でっ、でも実際問題あの位置から抜け出すコースなんてまだ全然ないだろ。先頭の留学生集団はともかくとして全体がスローペースと見ていいんじゃないか?」

 痛いところを突かれると早口になってしまうのは、子どもの頃からの夕真の癖だ。自分でも、舌がもつれているのが分かる。

 しかし、そんな夕真の動揺にも全く構う様子を見せず有希は小さく首を横に振った。そして夕真の手からタブレットを持ち去り、またすいすいと言葉を綴る。

『たぶん喜久井さんには見えてる。でも今そのコースを撮っても後ろの一、二年は付いて行くより先に前をふさがれる。だから菊井さんは抑えてる。少しイライラしてる感じがする』

 誤変換が目立つのは、あまり画面を見ずに指先だけで焦り気味に文章を打っているせいなんだろう。

『一、二年は集団走の経験が明らかに足りない。主将や主務みたいなセンスがあるわけでも御科さんみたいな度胸があるわけでも、喜久井さんみたいな洞察力があるわけでもない』

 ノールックで瞬きの間に綴った有希がレースを見守る眼差しは、夕真の気のせいでなければ虚勢を張りつつも不安に揺れている。

『いい意味でも悪い意味でも、今の一、二年は並の連中。だから外部からのモチベーションコントロールが必要』

 これまでの夕真は、勉強や仕事はともかく精神的なところではあまり人から頼られるタイプの人間ではなかった。

 また夕真自身もそんな周囲からの評価に甘えながらのらりくらりと、責任の伴う立場に立ったり言葉を発したりすることを避けてきたところがある。

 けれど後輩──しかも地元の同じ後輩だ──にそんな顔を見せられると、柄にもなく見栄を張って見せたくなった。

「わかった。要するに、それが声かけのキモってことだな。ありがとう」

 彼の綴った言葉を、無理矢理いいように捉えて口角を上げ、夕真はまずカメラのファインダーを選手たちへ向けた。

 月のクレーターさえをも鮮明に映す、バズーカ状の望遠レンズ。その焦点を、まだ遥か数百メートルの位置を駆けている喜久井ほかインディゴの集団に合わせた。

 ──カシャカシャ、カシャン。

 シャッターを素早く数度切ってから、すぐにレンズを広角のものへ交換する。

 そしてその倍率をめいっぱいに下げ、糸巻き状に広がった画角の中央に焦点を固定し、彼らが目の前を通過するのを捉えるための体勢を整えた。

「有希! タイム打ってくれ!」

 合点承知とばかりに有希はラップを刻む腕時計を見ながら、またノールックでタブレットにタイムを細かく打ち込んで行く。

「──先頭集団十四分十秒! 遅えぞ喜久井もう飛ばせ外回れ!! ノブタは焦んな後ろから押し上げろ!!」

 有希がタブレットに打ったタイムと端的なアドバイスをもとに、ファインダーから目を離し声を上げた。

 気のせいでなければ、喜久井は一瞬こちらを──というよりも夕真の握るカメラ、そのレンズを一瞥して一段ギアを上げた。

「先頭集団十四分十秒! 遅えぞ喜久井もう飛ばせ外回れ!! ノブタは焦んな後ろから押し上げろ!!」

 ちょうど五キロを過ぎようかというところだった。夕真が早口で叫ぶ声が聞こえ、重陽は思わず沿道を見る。

 その姿はすぐに見つかった。彼は両手でカメラを握りしめ、大きな口を開けて必死に声を上げている。そしてその横には、同じようにしてタブレットを抱えた有希もいた。

 ──先輩が見てる! 撮ってくれてる!! ここで出なけりゃ〝漢〟じゃねえ!!

 そんなモチベーションを燃やし、重陽はギアを上げて大外に飛び出した。

 それに、あの松本有希が打ち出した指示ならそれは賭けるに値する勝負だ。数字の上でも何より信用に値するアドバイスと言っていい。

「ユメタ! ハマ! 喜久井に着いてけ!!」

 それを聞いたチームメイトたちは、重陽ほどではないにしろ全員がそう思ったに違いない。現に、すぐ後ろを走っていたノブタ主将が後続にそう声をかけるのが微かに聞こえた。

 ちらりと一瞬だけ振り向けば、ノブタ主将は重陽とは逆に少しペースを落として後ろに下がって行く。彼のことだ。その間もずっと後輩たちへ声をかけ続けていることだろう。

 そういう器用さと基礎体力のある人だ。でなけりゃ本気で陸上に取り組みながら会社の経営なんかできやしない。

 重陽は再び前を見て──前だけを見て、そこにあるジグザグの光る道を駆けた。

 ひとり、またひとりと追い抜くごとに、そのピッチを刻む音と息遣いに注意を払う。重陽が外から前へ出て行ったことで、焦ってリズムを崩す者もいれば動じない者もいる。

 そして想像通り、前へ行けば行くほど、スピードを上げて行く重陽に動じたり注意を払う者は明らかに減っていった。

「ぐ──っ!」

 そのことに卑屈さと焦りが湧き、知らず識らず力んでいたようだ。食いしばった歯の隙間から漏れた自分のうめき声で、はっと重陽は我に返った。

 いい雰囲気。ナメられてた方が、かえって好都合ってもんだ。

 御科の悠々とした口ぶりと不敵で不気味な笑みを思い出しながら、重陽は首と肩を回し自分のペースを整えた。

 コースは八キロ手前で滑走路を抜け、九キロ地点で立川市街へとステージを変える。声かけをしてもらってからここまでの四千メートルでかなりまくった甲斐があり、先頭を走っているのであろう留学生集団の背中も、遠くにではあるが見えてきた。

 給水近いな。内側に入らないと。そう考えて歩道側を意識した、その時だ。黒いユニフォームの集団が重陽の視界を塞いだ。

 ──やられた! 完全にマークされた!

 ともすると肩口の触れそうな距離でぴったり着いてくる、シャドウブラックの集団──毎年の予選会を堅実な成績で勝ち上がっている熟練の一団だ。

 その見事な連携に重陽は、つい寸前に自分の体を強張らせた卑屈さと焦り、そして、そんな気持ちを抱いた自分の奢りを恥じて悔いた。

   *   *   *

「っし、行くか。大丈夫だ。調子に乗ったあいつは誰より強い」

 ファインダーから目を離して有希を見ると、彼はタブレットに目を落としたまま浅く頷いて見せる。けれどその表情はどこか険しく、眼鏡の鼻当ての間には深く皺が刻まれていた。

「……中継、映る? 映んないか」

 夕真はカメラに取り付けた広角レンズにキャップを被せ、公園内へ続く遊歩道へと有希を促す。有希は苛立ちを露にしてブラウザのリロードを繰り返しながら首を横に振った。

 予選会の日の昭和記念公園は例年、各チームの関係者のみならず多くの駅伝ファンでごった返す。そのため各通信事業者は人力アンテナ部隊を派遣したりなどの対策も講じるが、それでもインターネットは「運が良ければ繋がる」程度の強度でしかない。

「そういやお前、現場は初めてか。──毎年こうだよ。結局、ここでリアルタイムの情報追えるのはラジオだけだ」

 夕真が体の前に抱えたリュックから取り出したポータブルラジオを見て、有希は珍しく目を丸く瞠いた。

「嘘みたいだって思うよな。あの田舎から出てきたらさ」

 こくこくとしきりに首を縦に振る有希にワイヤレスイヤホンの片方を渡す。

「それだけの人がこの大会を走るランナーを応援してるんだ。正月の本選は百万人が沿道に詰め掛ける。……すごい大会だよ。箱根駅伝は。そういう舞台なら、きっとお前も自分を取り返せるよ」

 イヤホンを片耳に付けた有希は是とも否とも反応せず、さっき丸くしていた目を再び険しく細めてタブレットをメモに切り替えた。夕真は自分が発しそして受け流された言葉を少し恥ずかしく思いながら、その手元を覗く。

『飛び出した喜久井さんが日本人の先頭集団に飲み込まれた』

 それを見て、夕真も片耳のラジオに集中した。確かに実況は、日本人先頭集団に後列から追いついた複数の選手の名を報じている。

 しかし、有希が「追いついた」ではなく「飲み込まれた」と打ったことが気になった。

「今、九キロ過ぎたあたりか。……先頭集団のペース──今のペースもしかして、普段あいつが走ってる同じ地点のペースより少し遅い?」

 有希はそんな問いかけに、困った様子で少し首を捻ってからメモで答える。

『異常があるかどうかは見ないと分からない。ただ、故意に囲まれてペースを抑えられてるかもしれない。集団を作ってるチームはそういう作戦が上手い』

 そう言われて少しラジオの音量を上げてみたものの、中継は既に集団の前を走る留学生たちを追う先頭車からの解説に切り替わっていた。

   *   *   *

 ──ナメられてた方がかえって好都合ってまじでそれなんだよなあ!!

 重陽はまた、歯噛みしながら今いる集団を抜け出す道を探った。が、前も横も全く隙がない。給水地点はどんどん近付いてくる。

 ──焦るな。焦るな! 今日は雨で涼しい。日差しもない。フルマラソンじゃあるまいし水の一杯ぐらいなくたってどうってことないだろ大丈夫だ!!

 そう自分に言い聞かせながら腕を振っていた重陽の視界が、にわかに明るくなった。

 空模様を見て思わず息を飲む。乾いた喉がますます干上がる。

 小降りの雨はいつの間にか止み、雲の切れ間からは燦々と日差しが照りつけ始めたのだ。

 沿道にいる人にとってはきっと、ほっとするような暖かさの陽光なんだろう。しかしそんな日差しも走っている側からすれば、正月の本選でだって脱水を起こす選手を出すほどに体力を奪っていく。

 ついさっきまで陽光を遮っていたものは文字通り雲散霧消し、空はあっという間に見事な秋晴れになった。

 肌に当たる風の温度が変わる。暑い。焼けるように暑い。その明るさとは裏腹に、日差しは重陽の心に暗く絶望の影を落とす。

 依然として団子状態にある集団──思うようにペースを上げられないその中で心が折れそうになった。その時だった。

「喜久井ーーっ! 行けるぞ! 思い切って一歩攻めろ!!」

 沿道から懐かしい声がして、同時にぎょっとした。

 ──丹後さん!

 背の高い彼が、人垣の内側から身を乗り出して叫んでいた。

「十キロ通過二十九分五十三! まだ行けるだろ一歩だ一歩! 一歩攻めてけ!!」

 丹後は重陽が彼の前を通り過ぎる瞬間にもまたそう叫ぶ。懐かしい声だ。

 まだ高校生の──まだ何も知らない頃の重陽も、杖をつきながら東京のレースを見に来て彼の真横でその言葉を聞いたことがある。

『あんな集団の中から一歩抜け出すって、難しくないですか? 特に先輩とかおれみたいな大型の人間って。コツとかあるんですか?』

 重陽が純粋な向学心から尋ねると、彼は『コツ?』と不可解そうに、質問で返してきた。

『簡単なことだよ。ストライド伸ばして限界まで前に圧をかければいい。そういうのは大型ランナーがやった方が効果が高いし、数少ないアドバンテージの一つじゃないか? 大きい方が恐怖感を煽れる』

『え……危ないでしょ。接触したら大惨事じゃないですか』

『だから、相手は接触しないように道を空ける。万一接触しても、体幹が強い方が勝つ』

 こともなげにそう言った彼の、冬の空みたいに澄んだ目に、十八歳の重陽はぞっとした。

 突然の、それもほんの一瞬の再会で、重陽はその時のことをつぶさに思い出した。

 ──そうだった! あの人、そもそもそういうとこがある人だったじゃん!!

 雲と一緒に、長年の「どうしてあの人が」というモヤモヤも晴れていったような気がした。と同時に、幻滅した。念願だった。重陽はようやく、丹後尚武のことを「しょうもないやつ」と思うことができて、晴れ晴れとした気持ちになった。

 集団のちょうど中心あたりにいて、重陽の耳には周りの選手の息遣いがまるで自分のもののように聞こえている。こんな状況で無理に前へ出ようとすれば、接触事故を起こして共倒れだ。

 そんなラフプレーできるかよ! と思いながらも、重陽は迷った。考えている間に給水ポイントを通り過ぎてしまったからだ。

 頭の中の、澄んだ目をした彼が囁く。

『分かるよ。気が進まないよな。そういう心根の優しいところが喜久井のいいところだし』

 でも──と続ける彼の声は想像の産物。重陽の妄想だ。

『あと二センチだけ歩幅を広げれば、俺たちのチームは勝てる』

   *   *   *

 喜久井の走法はポジティブスプリットだ。その日の調子によっては慎重に入ってネガティブスプリットになることもあるが、少なくとも今日このレースでは「ポジティブスプリットで」という作戦が立てられていた。

 序盤に飛び出していくこの走法は、うまくハマればタイムが出やすい。しかし失敗すればレース終盤のここぞと言うところで大失速を招くリスクもある。

「雨が続くようなら給水なしでも行けるかと思ったけど……晴れてきたな」

 手元を明るくする木漏れ日につられ、二人して顔を顰めながら頭上を仰ぎ見た。周囲を見渡しても、着込んでいた上着を脱ぎ始める人がほとんどだ。

 喜久井のポジティブスプリットは、剛毅そうに見える外見とは裏腹に慎重な性格と、その性格ゆえの精密なペースコントロールによるところが大きい。

 しかし、そんな〝精密さ〟は、あくまでも細かな前提条件を計算した上で算出されるものでもある。

 要するに、喜久井エヴァンズ重陽というランナーはイレギュラーに弱いのだ。だからこそ細かに何通りもの事態を想定してペースを計算しているのは確かだし、そんな自分のレーススタイルに自信だって持っているだろう。

 ただ、想定外の要素を縮小すればするほどに、まさかそうはなるまい。という過信や奢りは拡大する。

「……まずい。完全に包囲されてる」

 公園内のコース十五キロ地点に陣取り、夕真はラジオの音量を最大まで上げ片耳を塞いだ。

「集団、引っ張ってるのは大正学院で……中から後ろは東武大の三、四年か。場慣れの差は埋められないしそのぐらいはあいつだって想定してたはずだけど……」

 と夕真が爪を噛んだ真横で、有希はまるで他人事のように涼しい顔をしている。

『そんなのこの際関係ない』

 そして、彼の口よりも目よりも雄弁な指先はタブレットの上で非情なタップを刻んだ。

『何を計算しようがどんな気持ちで挑んでようが関係ない。勝った奴が強くて速くて頭もいい。それが証明されるだけだ。運良く失敗しなかった奴が勝つ。陸上はそれだけのことだ』

 有希のそんな言葉に、瞬間的にカチンときた。喜久井がこのレースにどれだけの夢や想いや人生を賭けてきたことか。お前みたいな天才崩れのノンプレイヤールーキーなんかに分かってたまるか! と、夕真は内心で悪態を吐いた。

 喜久井だけじゃない。ノブタやユメタだって、御科だって、並々ならぬ思いと鬱屈を抱えてこの三年間を過ごしてきたはずだ。

 そんなこれまでの懊悩がこの二十キロと少しで宙ぶらりんの結末を迎えるだなんて、あんまりじゃないか。

「強いとか弱いとか、それこそどうでもいい。もうそんなのはうんざりだ!」

 そんな風に夕真が金切声を発しても、有希はなんの感情も伺わせない冷え冷えとした表情でタブレットに指を踊らせる。

「なんなんだよ!? ちょっとぐらい足が速いことがそんなに偉いのか!? 違うだろ!? 誰だって必死に生きてんだろ! お前だってそうじゃないのかよ!? なんで勝たなきゃ生きてる意味がない、絶対に強くなきゃいけないみたいになるんだよ!? そんなだから──」

 死にたくなるんだろ! と勇気の胸ぐらを掴もうとした手を、強い力で止められた。土田コーチだった。

「タマっち、落ち着け」

 とてもじゃないが太刀打ちできない力で押さえつけられ、はっと我に返る。土田コーチは口ぶりこそ落ち着いてはいるもののその目にはっきりと怒気を浮かべている。

「お前の言い分も解る。解るよ。──だけどそれは、ただ観てる側の人間が言っていいことじゃない」

   *   *   *

 ぐるぐると逡巡していたせいだろうか。前後を走る選手から、より強い圧を感じた。気のせいだとは思えない、物理的なものだ。

 気の優しいところが喜久井のいいところ。

 もしも実際、誰かにそんな言葉をかけられたとしたら。自分はどう応えるだろうか。

 やっぱそう思います? と茶化すのか、それとも、真面目ぶって謙遜するのか。

 それはきっと時と場合による。というか実際そんな評価を、重陽はいやと言うほど受けてきたはずだった。

 そんな自分の、自分に対する不誠実さが嫌で嫌でたまらなくて、だから変わろうとしたのではなかったか。そんな自分では彼の隣に立てないと思ったから、絶対に箱根を走ると決めたのではなかったか。

 ──くそっ、くそっ! ナメるなナメるなナメるなくそくらえっ!!

「邪魔だっ! どけっ!!」

 体の中でどうっと音を立て、酸素が激流になって全身を巡った気がした。そんな重陽のストライドに、接触を恐れたのであろう前の選手がコースを譲る。

 その細い細い光の道を、重陽は押し広げるようにして進み前へ抜け出した。

 過ぎ様、誰が言ったか「ヤク中大が」という悪態が耳に入る。けれどそんな憎まれ口にもゾクゾクする。気持ちがいい。

 ──ああそうさ。おれ決してお綺麗な人間じゃない。欲まみれ煩悩まみれのクソ野郎さ。でも、勝つ!

 後ろに過ぎ去っていった人間に何を言われようとも、心を揺り動かす必要はない。耳を傾け、心に留めるべきなのは──。

「ナイスラン!」

 と声を振り絞り、横顔に冷たい水をかけてくれるような親友の言葉だ。

「御科氏!」

 彼は恐らく、集団の後ろにつけて水を取ったあとでペースを上げアウトコースから重陽の横に着いたのだろう。

 私生活でもレースでも極限までマイペースを極める御科は、重陽とは逆にお手本のほうなネガティブスプリットを刻むランナーだ。そのため条件のいいレースでは信じられないような好記録を出すが、ペース配分における駆け引きや極端な気候には弱い。

 一瞬だけ斜め後ろに見えた御科は、給水ポイントで確保したのであろう紙コップの底を見せると、まるで溶鉱炉にでも飲み込まれていくかのように集団へ沈んでいく。

 天気予報から話し合った限りでは、今日のエースは御科だった。しかし、なんの因果かこの秋晴れ。この気候は確かに彼には暑すぎる。

 あれで御科は、マイペースなだけでなくクレバーな男だ。今日は自分よりも喜久井の日だ。と判断し、背中を押すように慣れないコース取りをして水をかけくれたに違いない。

 重陽が走るのは、つまるところやっぱり夕真と自分のためでしかない。けれどそのことと、ああして自分の背中を押してくれる人たちの想いを背負って走ったり、期待に応えたいと思う気持ちは、少なくとも重陽自身の胸の内では矛盾しなかった。

   *   *   *

 土田コーチの強い眼差しに負け、夕真は目を伏せた。

「すみません。取り乱しました」

 が、溜飲は下がらない。喜久井は足が速いから喜久井なのではない。足が速いから価値があるのではない。というか、他の誰だってそうだ。何かに抜きん出ていることも、至らないことも、そんなことは何一つとして人の価値を決めるものではないはずだ。

「まずさ、タマっち。よく見ろって。松本は別に一言も『勝たなきゃ生きてる意味がない』とか言ってないから」

 土田コーチは有希の手からタブレットを取り上げ、その角で夕真の頭を小突いてから眼前へと差し出してきた。

「……ほんとだ」

「だべ?」

「ごめん。有希。俺、本当に取り乱してたみたいだ……」

 深々と頭を下げたものの、有希はやっぱりどこ吹く風といった風情で首を横に振る。そして土田コーチからタブレットを返してもらうとたった一言『慣れてる』とだけ打って、それを夕真に見せた。

「なんというか、含蓄がすごいな」

 それを土田コーチも、横から一緒になって覗き込む。そして彼は、少しだけ呆れを滲ませたような口ぶりで言った。

「まあ、松本の言葉足らずなんか最初から分かってたことだけど。……でも陸上が『勝った奴が強くて速くて頭もいい。それが証明されるだけ』の競技ってのはガチ」

 な? と土田コーチが同意を求めると、有希は珍しく強い調子で深く頷く。

「ただまあ、だからって勝ったヤツが偉いとかすごいとかそういう話じゃない。コイツの言う通り、本当にただ『証明される』ってだけのことだよ。──ただ、うちの〝ガチ勢〟どもはどいつもこいつもアホだからな。勝たなきゃ死ぬって本気で思い込んでるし、死なないために死ぬ気で走ってんだ!」

 直前に人の胸ぐらを掴もうとしたその手が、同じ力で夕真の胸ぐらを掴み上げた。

「お前、今まで何を見てきたんだ? お前だけは信じてやんなきゃダメだろ。……ビビってんじゃねえよ! 勝てないはずないだろ! お前だけは信じてやれよ胸張って顔上げろ!!」

 土田コーチの上げた大声に、近くの誰もが視線を寄越した。どちらかというと人の目を気にしがちで気と胃腸が強くない彼はそのことにもすぐに気がつき、そうっと夕真の胸元を解放し深呼吸をする。

「……悪い。取り乱した」

「あ……いえ。なんか逆に──」

「いや。みなまで言うな。今のは立場上、学生気分が抜けてない俺が悪かった」

 と言って眉間を摘む土田コーチの横で、有希は片耳に差したイヤホンを押さえ、すぐにタブレットの上で指を踊らせる。

『十キロ通過の十人通過確定順は十二位。ただ、給水越えたあたりから喜久井さんが留学生なみにペースを上げている』

「……マジか!!」

 有希が文字を打つのとそれを読むタイムラグを置きつつも、夕真は土田コーチとともに声を上げた。自分でも改めて、ラジオに集中する。確かに、実況は日本人の先頭集団を抜け出した喜久井の猛攻を報じている。

   *   *   *

 自分で引き上げたピッチとストライドに合わせて呼吸を整え、重陽は改めて時計でペースを確認した。予定よりもかなり遅い。というか、上げたり下げたりでもうがちゃがちゃだ。ネガとかポジとか言ってる場合でもない。

 こうなったらもうとにかく、予選通過のためにはタイムを稼ぐしかないのだ。

 いつもの段階をすっ飛ばしてペースを上げたせいだろう。整えた呼吸もすぐに乱れる。けれど重陽に、ペースを落とそうとか調整しようなどという選択肢はなかった。

 先頭集団には御科、走力から言えばその少し後ろあたりにユメタ主務がいて、次のひと固まりではノブタ主将の引っ張る一、二年が集団走をしているはずだ。

 ロードでもトラックでも、集団の中での足の運びやペースメイクは当然ながら重要だ。けれどこの〝箱根駅伝予選会〟のような、もろにチームの合計タイムが結果を左右するレースは他にあまりない。

 そんなレースのため──ほとんど今日この日のためだけに──後輩たちは徹底的に集団走を練習してきた。

 箱根駅伝は長距離を走る大学生ランナーにとって、それだけの思い入れに値する大会であることは間違いない。けれど、青嵐大駅伝部にとってはきっとそれだけではなかった。

 自分を含む三、四年の全員とコーチには漏れなく「この闘いで負けたら死ぬ!」という常軌を逸した執念があり、彼らはそれについてきてくれたのだ。

 ──今ここであいつらの頑張りに報いられなくて、何がヒーローだ!

 重陽はそんな思いで気合を入れ直し、上がりかけた顎をぐっと下げてまたペースを上げた。

 そうして歯を食いしばり走っている内に市街地を抜け、昭和記念公園に戻ってきた。木々はまだ夏の緑を残しているが、路傍にはコスモスが咲いている。

 距離は残すところあと六キロくらいか。夕真は確か、十五キロあたりで声をかけると言っていた。あと少しだ。

 もう二度と、ダサいところは見せられない。初めて彼が撮ってくれたあの写真。あの時に切り取られたような姿が今以上に増えたりなんかしたら、自分はきっと一生彼に胸を張れないに違いない。

 ──走れ走れ走れ動け動け動け顔上げろ! 全部に勝って、自分にも人にも胸張って生きてやれ!!

 痛みを訴えているのが肺なのか腹なのかももう判別がつかない。日差しのせいか目も霞んできた。けれどちょうど、その時だ。

「喜久井ィっ! 行けぇっ!! そのまま突っ込めえーーっ!!」

 高く掠れたその福音に、重陽の意識はもう一度冷たい水をかけてもらったかのように鮮明さを取り戻した。

 ──もう絶対よそ見なんかさせないからな!!

 精一杯の虚勢を張りレンズ越しに笑いかけ、重陽は最後の追い込みをかけた。

   *   *   *

「そのまま来いっ!」

 夕真は脳裏に浮かんだ言葉をそのまま声に出して、さらにラジオへ聞き入った。

 十三キロを超えたところで確定した順位は速報と同じ十二位。十位とのタイム差は三十秒と少し。競っている。決して巻き上げられない数字じゃない。ただ、喜久井が一人で稼げるタイムかと言うとちょっと──いや、かなり厳しいと言わざるを得ない。

 しかし、周囲を常連校の選手に囲まれ窮屈そうにしているのであろう御科も、その後方に位置取っているユメタも、徐々にペースを上げ始めた。ノブタの先導する一、二年の集団走からは二年の綿貫が飛び出していったようだが、ほかのメンバーは練習通りの落ち着いた走りができているようだ。

 ああ……これは駅伝だ。と夕真はまた、爪を噛むと共に舌を巻く。彼らは確かに今、見えない襷をかけて走っている。

 その肩にかけた「意地」や「絆」と名の付く襷を、絶対に自分のところでは途切れさせるまいとして、こうして死ぬ気で走っている──もとい、走ることに命を賭けて生きているのだ。

 きっと多くのランナーは、自分のためだけでも他人のためだけにでもこうは走れやしない。

 自分のためにだけ限界を超えられるのは並外れた意思を持つ鉄人だけ。そして、他人のためにだけ犠牲を払えるのは度を越した聖人だけだ。

 だから鉄人でも聖人でもない多くのランナーは悩みながら苦しみながら、自分と人との関係を糸にして見えない襷を織り上げるんだろう。

 そんなことを考えていたら、なんだか無性に込み上げてくるものがあった。やっぱり俺は陸上が好きだ。走ってる人間が大好きだ! そんな想いが夕真の胸を、走るには暑すぎる日差しのような温かさで包んでいく。

「いいぞ! 通過順は上がってきた!!」

 有希がラジオを聴きながら打ち込んでいく速報タイムを見て、土田コーチはその声に興奮を滲ませながらガッツポーズをする。レースも終盤戦に入り、遠くから微かに歓声や太鼓の音が聞こえてきた。かと思えばすぐに、目の前を留学生ランナーが駆け抜けていく。

 「……来た」

 息を飲みながら、無意識に呟いていた。

 夕真はとっておきの望遠レンズを限界まで伸ばし、人の頭の間をぬってその姿にフォーカスを合わせる。ファインダーの中で徐々に大きくなるその姿には、強い既視感があった。

「喜久井ィっ! 行けぇっ!! そのまま突っ込めえーーっ!!」

 その瞬間。全身を赤く燃え上がらせたインディゴの不死鳥は瞬き一つの間で不敵に笑い、羽ばたくように腕を振って猛然と追い上げをかける。
 そこにはもう、小さな体で逃げ惑うように走っていた頃の面影は少しもなかった。

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