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災害列島「前兆」

最近は日本全国のいたる所で地震が発生しています。10年前の東日本大震災の余震であるとか、また別な震源による地震であるとか言われています。東日本大震災時に発行された「災害列島・危険情報地図」を見ると、日本中に危険発生要因があって恐ろしくなります。ひとつだけ言えることがあります。「日本に住む限り危険は避けられない」ということです。

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日本は地震国です。幕末からの被害が甚大であった主な地震について以下に列挙します。これに関してはWikipedia「地震の年表ー日本」より引用します。

安政江戸地震(安政の大地震)安政2年11月11日(1855年10月2日)、安政江戸地震(安政の大地震)、  M7.0 ~ 7.1、死者4,700 ~ 1万1000人。

濃尾地震、明治24年(1891)10月28日、M8.0、濃尾平野北西部などで最大震度7相当と推定。死者・行方不明者7,273人。

庄内地震、明治27年(1894)10月22日、M7.0、山形県庄内地方の一部で最大震度7相当と推定。死者726人。

明治三陸地震(三陸沖地震)、明治29年(1896)6月15日、M8.2 ~ 8.5、津波地震、死者・行方不明者2万1959人。

北但馬地震、大正14年(1925)5月23日、Mj(気象庁マグニチュードの単位)6.8、兵庫県豊岡市で最大震度6。火災発生、死者428人。

北丹後地震、昭和2年(1927)3月7日、Mj7.3、京都府宮津市と兵庫県豊岡市で最大震度6。震源付近で震度7相当と推定。死者2,925人。

北伊豆地震、昭和6年(1930)11月26日、 Mj7.3、静岡県三島市で最大震度6。震源断層付近などで最大震度7相当と推定。死者272人。

昭和三陸地震(三陸沖地震)、昭和8年(1933)3月3日、 Mj8.1、岩手県、宮城県、福島県、茨城県で最大震度5。大津波が発生し、死者・行方不明者3,064人。アウターライズ(外側の隆起帯の意)地震。

鳥取地震、昭和18年(1943)9月10日、 Mj7.2、鳥取県鳥取市で最大震度6。推定では鳥取平野を中心に震度7相当。死者1,083人。

東南海地震(昭和東南海地震)、昭和19年(1944)12月7日、 三重県沖、Mj7.9、静岡県御前崎市、三重県津市で最大震度6。静岡県袋井市付近、愛知県西尾市の旧矢作川流域で震度7相当と推定。死者・行方不明者1,223人、伊豆から紀伊にかけて津波。

三河地震、昭和20年(1945)1月13日、 Mj6.8、三重県津市で最大震度5。愛知県の一部で最大震度7相当と推定。死者・行方不明者2,306人、津波あり。

南海地震(昭和南海地震)、昭和21年(1946)12月21日、4時19分頃、和歌山県沖 ~ 四国沖、Mj8.0、中部地方から九州地方にかけて最大震度5。死者・行方不明者1,443人、房総から九州にかけて津波。

福井地震、昭和23年(1948)6月28日、Mj7.1、福井県福井市で最大震度6。現在の震度階級では震度7相当とされる。死者・行方不明者3,769人。※この地震を機に気象庁が震度7を制定。

十勝沖地震、昭和43年(1968)5月16日9時48分頃、 Mj7.9、北海道、青森県、岩手県で最大震度5、三陸沿岸で5mの津波。死者・行方不明者52人。三陸沖北部の固有地震。

日本海中部地震、昭和58年(1983)5月26日、Mj7.7、青森県深浦町、むつ市、秋田県秋田市で最大震度5、日本海に大津波、死者104人。

北海道南西沖地震 、平成5年(1993)7月12日、 Mj7.8、奥尻島で推定震度6、北海道江差町・小樽市・寿都町、青森県深浦町で最大震度5。死者・行方不明者230人。奥尻島などへの巨大津波で甚大な被害。

兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災、阪神大震災)、平成7年(1995)1月17日、 Mj7.3、兵庫県南部・淡路島北部で最大震度7、死者・行方不明者6,437人。当初は最大震度6だったが、実地検分により7に修正された。

東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、2011年(平成23年)3月11日14時46分頃、  Mw(モーメントマグニチュード)9.0 - 9.1(Mj8.4、日本の地震観測史上最大)。宮城県栗原市で最大震度7。他に東日本の8県(岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉)で震度6弱以上を観測。死者・行方不明者約2万2000人(うち災害関連死が約3,500人)。戦後最悪の震災。北海道から関東地方にかけて太平洋沿岸部への巨大津波で甚大な被害。福島第一原子力発電所事故を招く。3月11日以降の数日間に震源域から離れた場所で発生した地震も、誘発させた可能性が指摘されている

日本列島は、海中へとずれ動くいくつかのプレートの上に位置し、列島各地には無数の活断層があります。いつでも、安政の大地震や関東大震災、阪神淡路大震災や東日本大震災以上の大災害に見舞われる可能性は高いのです。

「関東大震災」

大正12年(1923)に発生した関東大震災震源地は神奈川県でした。県の西部から相模湾にかけてフィリピン海プレートと北アメリカプレートが重なっていることから、神奈川県内を震源とする地震が何度も発生しています。震災では津波も発生しており、鎌倉から小田原までの相模湾沿岸が大きな被害を受けました。

永井荷風は「断腸亭日乗」の同日に以下のように記しています。地震発生時には机の前に座って本を読んでいたようです(漢字変換できないものはひらがなにしております)。

九月朔(ついたち)。こっそう雨やみしが風なお烈し。空折々掻曇りて細雨烟の来るが如し。日まさに午とならむとする時 天地 忽(たちまち)鳴動す。(中略)立って窻(まど)を開く。門外塵烟濛々。殆ど咫尺を弁ぜず(視界がきかない)。(中略)予もまた徐に逃走の準備をなす。特に大地再び鳴動す。書巻を手にせしまま表の戸をおしひらいて庭に出たり。数分間にしてまた鳴動す。身体の同様さながら船上に立つが如し。

また昭和天皇について記録された「昭和天皇実録」には以下のように詳細が記録されています。

一日 土曜日 午前十時赤坂離宮を御出門、宮城に御出務になる。十一時五十八分、巨大地震が発生する。突如上下の大きな揺れが起り、震動甚だしく、皇太子は直ちに西一の間より前庭に避難される。強震が相次ぎ、轟音とともに正殿は動揺し、硝子・障子の軋む音にて、一時は凄然たる有様となる。その後も余震が続き、しばしば大鳴動がある。宮殿内においては、各所にて家具・調度品が転倒・落下する。

中略

この日の地震は、相模湾を震源とし、東京・神奈川・埼玉・静岡・千葉及び山梨の一府五県に未曾有の惨禍をもたらす。宮城内の被害は、宮殿、宮内省庁舎等は倒壊を免れたるも、主馬寮馬車舎・女官部屋廊下など全壊六百六十坪、済濘館・主馬寮庁舎など半壊九百五十八坪、その他大破四千二百二十坪。青山御所・赤坂離宮は被害比較的軽微なるも、芝離宮、浜離宮、高輪東宮御所、帝室林野管理局庁舎、学習院第二教室・特別教室、雅楽練習所等は焼失する。各所より発生した火災は宮城に迫り、大手門・有光亭に飛び火したものの、いずれも消し止められ、夜に入って吹上御所・宮殿・主馬寮等に危険を感ずるも、防ぐことを得る。

二重橋外苑に罹災者が殺到したため、午後七時平川門を開き、主馬寮広場に収容する。府下においては芝離宮・高輪東宮御所・新宿御苑・猿江御料地・上野公園・白金御料地・高田御料地などの御料地の一部、及び学習院・女子学習院・学習院初等科の建物を罹災民救済のため開放し、各皇族も殿邸・地所の一部を罹災者収容等のために提供する。


以下、2に続く



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