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2021.5.5 wed. 呪詛でなく

ゴールデンウィークは店を休み、食料の準備も万端、一歩も出ないつもりでいた。(あいにくティッシュペーパーを切らして仕方なく買いに出た)

読みたい本も見たい動画も山ほどあって、大型連休でも時間が足りないくらい。ずっとゴールデンウィークならいいのに。

いよいよ連休最終日、かねてより見るつもりだった映画を見ることにした。

『屍者の帝国』
2015年の長編アニメ作品。それをなぜ今?

昨年「ハイキュー!! 」というアニメに魅入られ、原作漫画一気読みし、その主人公のセリフを見事に肉体化させた声優・村瀬歩氏の仕事に驚愕して、彼の声の作品を遡って見漁っている。そのうちのひとつだった。
彼はこの作品で、主人公の親友「フライデー」を演じている。
外は土砂降り、部屋も薄暗い。香を焚いて湯を沸かし、茶を淹れた。ノートパソコンをテレビに繋いで大音量で再生。2時間。

伊藤氏が生前親しみ、人間の想像力と技術躍進により無限の可能性を秘めたアニメーション表現を武器に、30代半ばにして劇場2作目となる俊英・牧原亮太郎と、『進撃の巨人』で妥協ないクリエイションを世の中に知らしめたWIT STUDIOが挑む、アニメーションとしての『屍者の帝国』。 “死者蘇生技術”が発達し、屍者を労働力として活用している19世紀末。ロンドンの医学生ジョン・H・ワトソンは、親友フライデーとの生前の約束どおり、自らの手で彼を違法に屍者化を試みる。その行為は、諜報機関「ウォルシンガム機関」の知るところとなるが、ワトソンはその技術と魂の再生への野心を見込まれてある任務を命じられる。魂の再生は可能なのか。死してなお、生き続ける技術とは。「ヴィクターの手記」をめぐるグレートゲームが始まる! (C)Project Itoh & Toh EnJoe / THE EMPIRE OF CORPSES

エンドロールが終わった後、フライデーの独白が流れる。

この原作は若くして亡くなった作家・伊藤計劃氏の「プロット、試し書き」を友人だった円城塔氏が引き継いで書き上げたものだそうだ。

なんとなく検索してたどりついた河出書房の作品ページにあった円城塔氏の「あとがきに代えて」に、生前の伊藤計劃氏のブログ記事がリンクされており、彼の死後12年経ってそれを読んだ。そこに、さっき聞いたフライデーの独白そのものというか、答えがあった。ふー・・・

アニメーション監督の牧原亮太郎氏は「「霊魂」(anima)を与えて「動かす」(motion)。」ことに必然を感じながら日々製作したと書かれていた。

劇中で発せられる「ただもう一度、聞かせて欲しかった、君の言葉の続きを」 何重にも世界が透けて見えて・・・切なすぎる


昨夜のこと

なんとなくつけたテレビのニュースは、1時間経っても希望を伝えなかった。怒り、不安、いらだち、絶望ばかりを伝え、「それではスポーツです!」と笑顔で「オリンピックに備え開催の・・・」と続けた。

テーブルに家族がそろっていた。「なめんなよ」
誰に言うともなく言った。

「わたし、あと20年は生きたい。まだ死にたくない。
おまえがどうなっていくのか見届けたいし、まだまだいろいろ楽しみたいし、死ぬ予定はない。だけど、わからない。」

さっきもテレビで、コロナに感染して自宅待機中の人をケアする訪問看護師の人が、医療につなげず、「指の間から、命が、こぼれ落ちていくようなことばかりで・・・」と絶句していた。

確か去年は、罹ったとしても軽症で済むことも多いだとか、ウイルスは感染しやすく変異するが弱毒化して普通の風邪みたいになる、なんて聞いていた。どうやらそうではないらしい。インドでは荼毘が追いつかず、広場に焚き火が、あれは人を焼く火なのか、そんなものを見せられている。今。

注意深く暮らしているつもりだ。幸運にも今元気に生きている。
このまま感染者数グラフの山が下がり、また多少の上下があっても収束に向かうならいい。でも最悪、ここがインドみたいになったら?当たり前にあると思っていた物流が止まり、ライフラインも危うくなり、当然医療は機能停止、それでも運良く生きていられるだろうか。

「死にたくないけど、十分生きた。おまえも生まれたし、十分幸せだ。今死んでもそんなに悔いはない。
でもお前は、あと何年かかるかわからないけど、2年後か、5年後か、コロナが終息したあとの世界を大人として、主戦力として生きていく世代だから、絶対死んではいけない。今をよく見て、誰がバカなのか、よく覚えておいて、後世に伝えるんだよ。
“わしが高校生の頃になぁ、コロナっちゅう病が世界で流行ってな、なのにじゃ、日本はオリンピックなんかやったんじゃ” “またまたぁ、おじいちゃんったら” って、話して聞かせるんだよ」

先日、広島では河井案里元参院議員の当選無効に伴う参院広島選挙区の再選挙があった。怒りの、ぺらっぺらの一票入れに行ってきた。でもびっくりするくらい投票率は低かった。

たぶん、政治に関心がないのではなく、怒りの表現の仕方を間違えてるんだと思う。小さい頃から、理不尽なことには「知らんぷりしときんちゃい」「まともに相手せんほうがええよ」「忘れてしまいんさい」「負けるが勝ちよ」と教えられてきた。それが学校でも職場でもうまくやるコツだったし、効率よかったし、不必要に傷つくこともなく、忘れてしまえた。

だから
だれもかれも黙って、知らんぷりして、忘れて、やりすごそうとしている。
やり場のない悲しみや怒りや、そういうものがもう、あふれてこぼれているのに。

それを言葉にした時、昨夜のやりとりのような、呪詛に近い強い言葉にするのは簡単だ。考えなくても、激しく、いくらでも口をついて出てくる。

しかしそれが、最後の言葉になるとしたら

死に分かれた人に、残す言葉は、慎重に、あたたかいものであるべきだ。

今日、食卓で話すことから、そうしたい。
黙っていてはいけない。
最後の言葉になるかもしれない言葉を、なんでもない、平凡なことを、それでも、あたたかく、ユーモアで、言い続けたいと思った。


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