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目から鱗の出会い

コーディネイターという人たち…

30歳前後の頃からだろうか… 海外での撮影の仕事が増え続けていた。今から40年も前の話だ。
特に一時期は様々なタイプのヒューマンドキュメンタリー番組をシリーズで企画し、1年間のうちの1/3程を海外各地のロケやロケハンに費やしていた時期もある。

海外取材の場合、必ず現地のコーディネイターとタッグを組むこととなる。
勿論コーディネイターは通訳の役割も大きいので、多くは現地在住の日本人、または日本語や日本の文化を熟知した現地人というケースもある。
駆け出しの頃は人脈や経験も少ないので、コーディネイターは他のディレクターやプロデューサーからの評判を頼りに手探りで探すこととなる。
ロスアンジェルスやニューヨーク、ロンドンやパリといったポピュラーな取材地には、当時でもそれなりに日本からの撮影隊用にコーディネート・プロダクションがあったりしたが、あまりポピュラーではない街や僻地となると、ちゃんとしたプロのコーディネイターが探せなかったるする。

そんな場合は、現地の日本人留学生や主婦、全く別業界のブローカー… はたまた普段何を生業にしているのか全く分からない恐ろしく怪しい人物に頼らなければならないこともある。
当時撮影は今よりずっと費用の掛かるシビアな仕事だったので、あまり悠長に構えている余裕はないのだが、こういう様々なコーディネイターとの出会いは、人好きの私としては実はちょっとした楽しみでもあった。

コーディネイターは事前現地調査から始まり、その後のロケハン、さらに本番ロケ、情報に間違いがないかなどの取材後調査、さらに作品となった映像内容のチェックなど、長く親密に付き合うこととなる。
中にはすっかり仲良くなってしまい、その後帰国して私の制作会社に制作マンとして入社した元コーディネイターもいたほどだ。


マノさんとの出会い…

その中でも、今回はピカイチで私の記憶に深く刻まれた1人の人物を紹介しよう。スペインはアンダルシアの中心地、セビリアに住んでいた『マノ(間野)さん』という男性のコーディネイターだ。
マノさんと私が初めて出会ったのはセビリアからは遠く離れたカタルニアのバルセローナ。
建築家アントニオ・ガウディの愛弟子が当時まだ1人生き残っているという話を聞きつけ、インタビューを依頼しにやって来たのだ。

ガウディのお弟子さんは既に90歳代の老齢。伯爵家の出身で、当時大きな屋敷で車椅子生活を余儀なくされていた。
相当老化は進んでおり、現状スペイン語ではなくカタルニア語しか話さないという。
息子は当時サクラダファミリアの建築主任で、我々は息子さんとの交渉で、ガウディの建築物と愛弟子であるお父様へのインタビューを依頼していたのである。

サクラダファミリア教会

私はこのヒューマンドキュメンタリー番組の総合演出。自分がディレクターとして撮影をする以外のコンテンツも全てシナリオハンティングを行いながら世界中を飛び回っていた。仲介を取るコーディネイターは手慣れたプロの方をマドリードから呼び、カタルニア語の通訳も準備した。
交渉もいよいよ本決まり間近になって、私は担当ディレクターやカメラマンと一緒にロケハンも兼ねて現地入りしていた。

ところが…
建築主任の息子さんは肝心のお父様へのインタビューに対して、急に難色を示し出した。
というより… これは後で聞いた話なのだが、直接仲介の窓口となったコーディネイターに対しては交渉当初からインタビューについては難色を示していたそうなのだったが、いざ我々が日本から現地に来さえすれば、何とか押し切れるだろうと楽観的に考えていたようなのだった。

私も現地到着以来、何度か説得を続けた。ガウディの建築物を紹介するに当たって、アントニオ・ガウディが何を考え何を大切にしていたのか… その姿を目の当たりに見ていた愛弟子の言葉を得られるかどうかは、この企画の大きな肝になるからだ。
しかし… 父親の健康状態を心配する息子さんは頑なにこれを拒み続け、撮影を目の前にして取材は暗礁に乗り上げてしまった…

これはもう、企画内容を変更するしかないか… と、諦めかけた時、マドリードのコーディネイターが提案した。
「相手は誇り高いカタルニアの貴族ですからねえ、我々の利害関係は通用しないでしょう。ただ、こんな時にはこの国ではこの国なりの人間性がものを言うことがあります。僕の知り合いのコーディネイターにやたらとスペイン人にウケのいい不思議な方がいます。ただ彼はセビリア在住なんですが… どうですか?ダメもとで招聘してみます?他にはもう手はないと思います… 」
で、その最後の手段を試してみることになった。

翌日、そのコーディネイターが現地に到着した。
歳の頃はまだ若く、当時30代前半だった私と変わらない。
薄汚れたシャツとズボン姿。履いている革靴もあちこちが擦り切れている。愛想は良いのだが、無精髭を生やし飄々とヘラヘラしていて、掴みどころのない感じの風采の上がらない… 言ってみれば、見窄らしい感じの細身の男性だった。
とてもまともな職業の人物には見えない。
その辺の道端の地面の上に座っていてもおかしくない風貌だ。

知り合った頃の私とマノさん

早速、その夜、我々が宿泊しているホテルで打ち合わせを行い、これまでの経緯をマノさんに細かく説明した。
「… という状況なんですが、如何ですか?まだ交渉の余地はありますかね?」
「あはは… いやあ、それは大変でしたねえ。まあ、ご当人とお会いしてみないと分かりませんけど、交渉してみる価値はありそうですね。カタルニア人の貴族で、しかも建築家ですよねえ… 相当にプライドは高い方でしょうから… おほほほ… まあ、その辺が弱みにもなるでしょう… 早速明日伺ってお話ししてみましょう」
「やっぱり、お金の問題とかもあるんでしょうか?サクラダ・ファミリアは建築費を集めるのが大変という話も聞きますから、少しお礼のお金も包んでいった方がいいんでしょうかね?」そう訊いたのは同行していた企画者で広告代理店のプロデューサーだ。
「お金って… お幾らぐらい用意出来るんですか?」
「え〜… 数十万ペセタくらいだったら… 何とか…」(当時1ぺセタ=約1円)
「あはははは… そんな… 相手は貴族ですよ。ん十万ペやそこらのはした金、かえって気分を悪くするだけですよ。ま、手土産でも持っていく方がいいでしょう」
「じゃあ、早速アポ取りますね」と、マドリッドのコーディネイター。
「いやいや、アポはいいでしょう。こういうのはねえ、突然がいいんですよ、突然が。おほほほ…」
マノさんはそう言いながら、シャツのポケットから手巻きタバコをを取り出し、大事そうに形を直して火をつけた。
覚えのある怪しげな香りが部屋を漂い始めた…

何はともあれ、翌朝私とプロデューサーはマドリッドのコーディネイターの運転でマノさんを連れ、目指す建築家の屋敷に向かった。
マノさんのいでたちは… 昨日のままだった…
「どこか花屋があったら、ちょっと止めてください。手土産にお花を買っていくんで… 」
「花でいいんですか?」
「花がいいでしょう」

「私は1人で伺いますんで、皆さんは車でお待ちください」
古い大きな屋敷の門に降り立つと、ド派手で大きな花束を抱えマノさんは屋敷の玄関に向かった…
門から遥か遠くに玄関のドアがある。扉が開き、マノさんは中の人と何やら話をしている様なのだが、何を話しているのかは分からない…
やがて、彼は無事迎え入れられた様だった…

それから30分以上が経過した… 我々は少々待ちくたびれていた。
「大丈夫ですかね… あの人…」
「正直あの感じだと、玄関で門前払いかと思ってたら、なかなか出てきませんよねえ…」
「まあ、我々は待つしかないんですから、待ちましょう… 」

さらに10分以上が経過しただろうか… ようやく玄関の扉が開いて、マノさんが屋敷の中の人物に笑顔で話しかけている姿が現れた。
まるで何事もなかったかの様に飄々と門を出て、我々の待つ車に近づく…
「如何でしたかあ?」
マノさんは窓越しににっこり笑って車に乗り込む…
「おほほほ… まあ、バッチリでしたあ。全てOKですう〜。明日、息子さんが教会のオフィスの方に来てほしいとのことでしたよ」
「あの… お父様へのインタビューの件は… 」
「ほほほ… ええ、何でも協力させるんで何でもやらせて下さいってことです。まあ、死なない程度に…あはは… 」
「マジっすか… どうやって説得したんですか?」
「あはは… いや、まあ、私がセビージャから来たってお話したら、ヘレス(アンダルシアのシェリー酒)を振る舞われましてね。やっぱりさすが貴族ですねえ。これが美味しいのなんのって… おほほほ… ついつい沢山頂いちゃいまして、すっかりいい気持ちで沢山お喋りしてしまいました、あはは… 」

結局のところ、どんな経緯でマノさんが説得したのかは全く要領を得なかったが、とにかく全てが丸く収まり、結果その後の撮影も取材も全て順調に進むことになった。
私はこの時、かのマノさんという一風変わった人物に得体の知れない信頼を寄せるようになり、何か機会があったら是非また付き合いたいと思うようになったのだった。


セビージャでの再会はジプシーとの架け橋に…

マノさんとの再会は比較的すぐに訪れることになる。
取材地はマノさんの地元セビージャ… この地で絶大な人気と支持を集めるカンタオール(フラメンコ音楽の詩吟家・歌手)ルイス・カバジェロ氏の生い立ちと活動、そしてその心情を追うという内容だった。
コアなフラメンコの撮影は難しいと聞いていた。なぜならそこには圧倒的に排他的なジプシー社会という壁があるからだ。

取材ターゲットとなったルイス・カバジェロ氏

ジプシー社会… 観光で訪れた人はあまり知ることはないが、そこは完全にアンタッチャブルな世界。
ジプシー、つまりロマ族は定住を好まず他民族との血縁を拒む排他的な文化から、長い迫害の歴史を抱えている。
通例の日雇い仕事に加えて、ミュージシャン、ダンサーを含めた芸人や曲芸師、土産物屋、占い師、違法なブローカー、詐欺、窃盗、置引き、物乞いに至るまで、彼らにとっては歴史的にも重要な糧となっている。
言ってみれば、一種治外法権的(的…というか全くの違法社会なのだが)価値観を保ちながら、通常の市民たちと共存してきた存在。
そしてフラメンコはここアンダルシアの地で彼らが生み出した音楽。
表層的ではなく、そのコアに触れる為には予めジプシー社会から取材許可、つまり『お墨付き』を取っておかなければならないのだ。
言い換えれば、アンダルシアの地ではジプシー社会からの許可をもらっていれば、観光地のタブラオなどにとどまらず、本当の意味でのフラメンコのコアとなる場所や人物を深く取材することが出来る、ということだ。

アンダルシア人の生活に根付くフラメンコ

目論見通り、マノさんは絶大な実力を発揮してくれた。
コーディネイターマノさんのもう1つの顔はフラメンコギターリスト…
とは言え、当時マノさんはセビージャコンセルバトワールのまだ一年生。何度も落第を繰り返し、なかなか2年生になれずにいたそうなのだが…

ギタリストでもあるマノさん(最近ネットで見つけた画像)

それでも、特にセビージャのジプシーたちとは深いコネクションを持っており、市の観光局からは絶対に近づいてはいけないと言われていた郊外のジプシー集落に飄々と1人で乗り込み、そこの長からあっという間に許可を取り付けてくれたのだ。
「川崎さん、OKですよ。お墨付きを頂きましたんで、ここから2週間は何処でも誰でも取材してくれていいそうです。何か妨害されたら、すぐに知らせてくれと言ってました」

もちろん、各地の隠れた名タブラオやバル、市内に点在する歴史的なフラメンコ学校、そして様々なミュージシャンたち…等、難航すると思われた取材交渉もどんどん前に進む…
この分なら、当初2週間予定していた取材期間も10日間くらいには楽に圧縮できるだろうと余裕の気持ちでいた。
ところが… マノさん曰く… 「川崎さん、アンダルシア人を舐めて貰ったら困りますよ〜ここは享楽の地ですから、ここで仕事をするとなると… あはは… まあ、やってみたらわかります」とのこと。

そして… マノさんの言う通り、私はアンダルシアの洗礼を受けた。
約束通り取材先を訪れてもすっぽかされる…
待ち合わせには平気で1、2時間は遅れてやってくる…
現地で雇ったスタッフがいくら待っても来ないこともある…
深夜遊びが得意なアンダルシア人は午前中はボ〜ッとして殆ど使い物にならない…
シエスタの時間が長く、午後も日の高い時間は仕事にならない…
撮影現場も、いくら急がせてものんびり休み休みが原則…
東京のペースを持ち込もうとしても、暖簾に腕押しなのだ。
それでも、なんとかギリギリ、何度も胃の痛む思いをして撮影を終えることが出来た…


アンダルシア人は何故働かないのか… 目から鱗のお話…

無事撮影を終えた最後の晩、私はマノさんとホテルの部屋でようやく得られた安堵の気持ちで盃を交わしていた…

「いやあしかし、大変でしたねえ… この街の人たちは本当に働かないんですねえ… 時間も約束も全然守んないし… なんであんなにみんな休んでばっかりいて働かないんですか?」
「いや、川崎さんねえ、日本人から見たらそう見えるかもしれませんが… いいですか?日本人は歴史的に見ても実に良く働きますよね。一年中早朝から深夜まで休みなく働いて、昔は週末もないし、休みと言ったら正月とお盆だけ。1年でほんの数日だけでしたよねえ」
「そうらしいですね、でも今は土日の週末もあるし、連休や祝日や夏休みも結構あるし… まあ欧米並みとまではいかないけど… 」
「そう。元々休みのない世界から、少しずつ休みを増やしてきたっていう感じですよね」
「まあ、そうですね… でもそういう意味じゃどこだって昔はおんなじなんじゃないんですか?」
「いやいや… それがここでは大きく違うんですねえ…全く逆なんです。川崎さん、都市国家って分かります?」
「ええ、古代ローマ時代ですよね… 」
「そうそう。ここセビージャも紀元前8世紀くらいからヒスパリスっていう都市国家だったんです。その時代の都市国家の市民って、全く働かなかったのをご存知ですか?」
「え?じゃ、誰が働いてたんですか?」
「そりゃあ、奴隷ですよ。市民は侵略側の支配階級ですから、全ての仕事は奴隷にやらせてたんですねえ。それが紀元8世紀くらいまで… ここの市民は1500年くらいずっと働かなかった訳です。流石にそのまんまじゃ市民はどんどん怠け者になってしまう… で、これは有名な話なんですが、かのローマのジュリアス・シーザーが年に1日だけ市民が働く日を作ろうということを提案しまして、その日をネゴシオと名付けたそうです。ネゴシアンスの語源ですね」
「年に1日だけですか?」

年に1日だけ働く日を作ったジュリアス・シーザー

「ええ.. その日は1日だけ奴隷たちに休みを与えてね。ま、本当に働いたかどうかだって怪しいもんです。ところが、そういった都市国家も紀元8世紀にイスラムのアラブ勢力の侵略を受けたんですねえ」
「じゃあ、市民は今度は奴隷にされちゃったんですか?」
「それがですねえ…なんと、アラブ人側は意外や太っ腹でして、反抗勢力が育つのを恐れて、王族、貴族、市民の権利をそのまま残したんです。まあ、そのまま働かなくていいから、大人しくしといてくれっていうことですね。で、そこから6、700年、またまた働かなくていい生活が続いたんですねえ」
「年に1日だけ?... 」
「あはは… ええ、まあそんな感じです。で15世紀に起きたのがレコンキスタ。国土回復運動ですね。スペインのキリスト教市民がイスラムから国土を奪還したんです。でもまあ、何百年もイスラム政権に食わせて貰ってた訳ですから、さあ大変!いよいよここからスペイン人も働かなくてはならない時代になるのかと、まあ、はは… 市民たちは戦々恐々としていた訳です」

グラナダ陥落の絵…スペイン人はイスラム帝国から国土を取り返した

「なるほど… じゃ、そこからここの人たちも働き始めたということですか?」
「いやいや、まだまだ… その頃、丁度現れたのが、かの探検家クリストファー・コロンブスなんですよ。ご存知でしょうけど、おほほ… 海の果ての向こうに大陸があって、金銀財宝が眠っているという、まあまことしやかな話で、あちこちパトロンを探していたんですね。もちろん、イタリアやポルトガルの王室や資産家たちはあまり相手にしなかったんですけど… 唯1人、このセビージャに嫁入りしたイザベル女王だけが話に乗って、自分の資産でバックアップしたんです。結果はご存知の通り。見事にコロンブスは新大陸を発見。そこからは毎年毎年大量の金銀財宝がこのセビージャのグアダル・キヴィル川の船着場に運び込まれることになります。結果この莫大な利益の殆どがスペイン王国とセビージャにもたらされることとなった訳ですね。大航海時代にあの太陽の沈まぬ王国・スペインを支えたのはここセビージャとなったわけです」

スペインに莫大な富をもたらすこととなったクリストファー・コロンブス
コロンブスのスポンサーとなった女王イザベル一世
コロンブスは莫大な財宝と利権を土産に新大陸から帰国した

「はあ……それはどのくらい続いたんですか?」「まあ、そこから300年以上、近代になるまでです。セビージャの人々はまたまた働かなくていい時代を続けられたんですね〜おほほ…」
「で、今は?」
「もちろん、そんなものは300年間で使い切ってしまいましたよ。ですからその後の100年、ここの人たちは一生懸命働こうとしているんです。でもまあ、元が元ですから… なんと言っても年に1日だけの人たちですから、他の国の人たちと比べれば、圧倒的に休みは多いんですが、彼らは多いとは思っていません。価値観が違うんです」
「やっぱ、多いんですか…」
「多いですねえ… 昼食後のシエスタは3時間、夕方から夜までちょっと働いて、家に帰って子供を寝かせたら、街に繰り出して、バルをハシゴして、明け方近くまで飲み明かします。ですから、おほほ… 朝は基本二日酔い。職場に出勤したら、まずは近くのバルで迎え酒かコーヒー。ゆっくりおしゃべりに花を咲かせてからオフィスに戻りますが、まあ、まともな仕事にはなりませんわねえ。で、もちろん土日は休みで、地域ごとに違いますが様々な聖者の誕生日は祝日でお休み。感謝祭とクリスマスとお正月を兼ねた冬休み。イースターの春休み。年に3回ある大きなお祭りでは準備休みとお疲れ様休みを合わせてそれぞれ3週間のお休み。もちろん夏休みもほぼ1ヶ月たっぷりありますよ。そうそう、最近振り替え休日制が導入されましてね。はは… 」
「じゃあ、また元の木阿弥に戻っちゃうんですかね?」
「いやあ、それはないでしょう。なんたってお金はもう使い切っちゃった訳ですから… まあ、懸命に働く習慣を身につけようとはしている訳ですわね。2000年以上、年に1日しか働かなかった人たちですから。これでも少しずつ働く時間は増やそうとしているんです。少しずつ休みを増やしてきた日本人とは全く逆な訳ですねえ」
「なるほど… そりゃあ全然違いますねえ… 」
「でもね、いいこともあるんですよ」
「いいこと?... それって何です?」
「ここは働かないことが罪悪ではない社会なんです。例えばですねえ… 私が仕事もしないでお金もなくて、昼間っからバルに入り浸っているとしますよねえ… それを白い目で見る人は誰もいません。それどころか、金がないんだったら奢ってやる、持つ人が持っていない人に奢るのは当たり前と、飲み食いの面倒まで見てくれるんです。怠け者には物凄く寛容なんです。これってね、とっても暮らしやすいんですわ… 貧乏芸術家でも、乞食でもルンペンでも誰もが平等に生きていける街なんですねえ。まあ、一度味わったらなかなかやめられませんよ。あはは…」

なるほど… そういえば観光客相手の高級レストランは別にしても、庶民的な街角のバルに行くと、身なりの良いいかにも中産階級・上流階級の紳士が、貧しそうな労働者たちやジプシーの流しも交えて仲良さそうに盃を交わしながら、飲んだり歌ったりする姿をよく見かける。
生活自体にははっきりと階級差があるのに、明らかに階級間には交流があるのだ。

どこにでもある街角のバルは様々な階級の常連でひしめき合っていた

よく働くこと、真面目に仕事をすること、お金を稼ぐこと… それは決して絶対的な『是』ではないのだ。
「そんなことは分かっている」と理性で主張することは容易いが、どう実践すれば良いのかを知る人は少ないだろう。
それを自然体で実践する人々の姿がそこにある街…
本当の意味で人は平等であること…
アンダルシアは…セビージャの街はそれを目の当たりに示していた。

あれから40年…
今セビージャはどうなっているのかは知らないが、あの時のマノさんのあの話は当時の私にとってまさに『目から鱗』の話だった…







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