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今の世の中、生きづらい?

いしいみちこさんの講演を聞いた。
いしいさんはドラマティーチャーという肩書を持つ。
演劇というものにはあまり縁がなく、演劇の先生と聞くととてつもないエネルギーを持った人なのかなと、少しびくびくしていた。
参加を決めたのは、「演劇と教育ー生きる方法を学ぶー」という講演のタイトルに惹かれたから。「私も生きる方法が知りたい!」と思った。

講演を聞いて、これまでの演劇の概念が変わった。自分の中で、演劇というものの認識が仰々しいものから、自然なものに変わった。
いしいさんは福島県で高校の国語の先生だったそう。
それを聞いて、「そうか、演劇は表現のひとつの方法で、国語に分類されるのか」と思ったら、一気に親しみがわいた。

福島県では公立の、いわゆる進学校ではないような学校にいたそう。
高校生くらいの頃の生徒は成長も著しく、身体からエネルギーがあふれ出ている。
そんな高校生たちが、エネルギーを発散したい気持ちを我慢して、必死に机に座って授業を聞いている様子を見ていたいしいさんは、教育現場に疑問を抱いた。教室に座らせていることが教育なんだろうか?と。


そんなとき、いのちの大切さを問うような出来事が学校で起きたという。
人間として最も大切なその問いに、今の教育は学びを与えられているんだろうか。
そんなことを考えていると、2011年3月、震災が起きた。

震災が福島県内にもたらした変化は、「陰に陽にさまざまだった」という。
いしいさんのいたいわきは、原発の帰還困難区域からの避難者の受け入れ先だった。
そこでいわきの人と、外から避難してきた人との間で、分断が起きた。
いしいさんはそんな分断をなくそうと、I-PLAY FESというものを開催した。
芸術文化の力で復興を後押ししようという演劇祭で、コミュニティの再生を目指した。
いわきの高校生たちは、演劇を通して様々な境遇の人たちとふれあい、成長を遂げたそう。


いしいさんの演劇についての説明によって、演劇というものが「生きる方法」であるということがとても納得できた。
表現をすることは存在を証明することである。
人間の持つ最も高次の欲望は自己実現だという。
表現によって自らの存在を証明できると、精神的にも身体的にも健康になる。
これからの時代には、経済的に成長することによって幸福を感じていたこれまでのやり方はもう、難しい。それでは何によって幸せを感じるか。
いしいさんが提案するのは「表現による幸せ」だった。

今の若い世代は生きづらさを感じている、ということはたくさんの人が言うようになってきた。
私も数年前、東北食べる通信編集長だった高橋博之さんがそう言うのを聞いて、「私もそうだ」と気付かされた。
生きづらさの原因というのは、「生存実感の喪失だ」と高橋さんは言っていた。その言葉に共感した同世代たちとも、たくさん出会ってきた。


いしいさんが言うことにも共通性を感じた。
いしいさんは国語の、表現の先生ならではの視点で語っていた。

昔からコミュニケーションをとるには同じ場に集まることが必要だった。
井戸端会議などまさにそうで、ご近所同士が集まって会話する、そういうコミュニケーションがとられていた。
それには「身体をその場に持っていく」ことが必要だった。

しかし、情報技術が進歩した今、コミュニケーションをとるために「身体をその場に持っていく」ことは必要ではなくなった。
どこにいても、顔が見えない相手とコミュニケーションをとることができる。
それが、人々から「身体性を伴う実体験を減少」させている。リアルを実行しなくなった。


いしいさんが、生徒たちが制作したSNSについての演劇を見せてくれた。
そこでは、SNSにとらわれて苦しむ高校生たちの姿が描かれていた。

たとえば、インスタグラムのアカウントの質(いかに魅力的な写真を投稿できるか)によってスクールカーストが決定される。
LINEをやり取りしていた相手から突然返信がなくなったと思えば、他のSNSをたどることによって、相手が携帯を見ているにも関わらずLINEを”未読無視”していることが判明する。
SNS上では活発にコミュニケーションがとれるのに、対面では別人のように話さない。
SNSで特定の人のみでグループを構成する機能を使って、仲間はずれを生み出す、などなど。

現役の高校生とは少し年が離れている私でも頷けることもあれば、
今の時代に高校生でなくてよかったと思うくらい、今のSNS事情には恐怖心を抱いた。
その恐怖心は、当事者である高校生たちも感じているようだ。

失敗をすればすぐに”いじり”の対象になり、いじりは過度になればいじめに発展する。
いじられないように、いじめられないように、過度に失敗を恐れる。
また、SNS上であれば自分の知らないところで何を言われているかわからず、他者が信頼できない。(今の子たちは友達が信用できず、相談する相手は親なんだそう。私とは真逆で驚いた)
他者が信頼できず、失敗を恐れるあまり、表現しない、という手段をとる。
授業でも発表したり質問したりもしない。

そうして自己防衛のために自主規制を行う高校生たちは、さらにSNSに没入し、視覚情報を得ようとする。
視覚情報に頼りきりになって、想像力さえ失ってしまう。

自分でも、負のスパイラルに陥っていることがわかっている。わかっているけどやめられない。
なぜなら、SNSを見ることをやめてしまえば、SNS上で起こっていることから置いて行かれ、いじめの対象になることが目に見えているから。
話を聞いているだけで同情してしまった。

私が高校生だった頃には、まだ今ほどSNSは発達していなかったし、SNSで構成された輪に「入らない」という選択ができた。
「入らない」ことが格好いいんだと(無理やり?)プライドを感じていた。

でも今ほどSNSが当たり前になっていると、同じような振る舞いができていたとはまったく思えない。
今の時代に高校生でなくてよかった、と思わずにはいられなかった。

いしいさんは、現代に生きづらさを感じる高校生たちに、演劇という打開策を示している。
いしいさんが3つの軸とするのは「身体・思考・協働」。
いしいさんは身体を、自分の存在の発信機であるとともに、他者から発信されることの受信機でもあると考える。そんなアンテナである身体を鍛えることによって、心身のバランスをも鍛える。
また失敗を恐れず、「できることより考えること」が大切だと、思考を鍛える。
そして、自分と違う他者を認め、違うものと協働することによって新たな価値が生まれることを教える。
いしいさんの授業では、この3つの軸を基本に表現することを学んでいく。

はじめ「演劇の授業」と聞いてイメージしていたものと実際はかけ離れていた。
演劇というものには縁のなかった私だが、いしいさんの授業を受けてみたくなった。

いしいさんは現在、大阪にある私立高校で、表現に特化した科でダンスと演劇を教えている。こんな特殊な科にどんな生徒たちが入ってくるのか、気になって聞いてみた。
幼い頃から演劇やダンスに親しみのある少しの生徒の他は、「自分を変えたい」と言って入ってくるそうだ。
そして生徒たちは卒業を迎えるとき、目まぐるしい成長を遂げた姿に変わっていくらしい。
もう一度高校生活をやり直したい、と思った。

もうひとつ、いしいさんははっとすることを言った。
いろんな境遇をもち、その科を選んで入ってくる生徒たちは、学力ひとつとっても多種多様らしい。
偏差値の高い子もいれば、勉強はまったくだめな生徒もいる。
しかしその多様性は社会そのものであって、いろんな境遇の人と協働することが社会を生きることそのものなのだと、いしいさんは言った。

自分のこれまでの人生を振り返ってみる。
高校も大学も新卒で入社した会社も、学力をひとつとると、多様性には欠けていたような気がする。
同じような”階層”の人が集められるような入試・採用制度だと、同じような人しか集まらないのは当然だ。

しかし、同じような人としか出会わないということは不自然なことであって、社会に出るとそうはいかない。
社会で生きる術を見つけるためには、いろんな境遇の人と協働することが道筋になるのだと。
教育というものの可能性をさらに感じる話だった。


私は自分の感じる「生きづらさ」というものを言葉にすることができていない。
高校生たちのリアルな「生きづらさ」を知って、SNSがもたらす社会への影響を知った。
他にもきっと、生きづらさの原因はたくさんあるんだろう。まずはそれを明らかにしてみたいと思った。

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