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身体性を研ぎ澄ますこと

美術大学が主催するプログラムを少し見学させてもらった。
プログラムの受講生たちは1週間、辺境と呼ぶにふさわしい地域を旅して、普段はできないような体験を重ねながら、最後には各々が感じたことを発表する。
旅には”メンター”と呼ばれる各界を代表するアーティストが同行する。

メンターの方々の話を聞いていて、共通したものを感じた。
それは「身体性」だ。

現代はスマートフォンの普及やVR・ARの発達などにも見られるように、情報を得る手段は視覚に偏っている。
それにより、その他の感覚が鈍ってしまっているという。

たとえば聴覚。テレビをつけながらスマホを見て過ごす人は少なくない。
そういう場合はテレビとスマホのどちらも真剣に見ているのではない。
無意識に、耳からの情報は入れず、スイッチを切っているような状態。
視覚からあまりにも膨大な情報を取り込んでいるせいで、その他の感覚で情報を得にくくなっている。

あるメンターの方が話してくれたおもしろい体験談があった。
視覚が不自由な方がどんな風に他の感覚を研ぎ澄ませて歩いているのか、公園を一周歩いてみる。
目をつぶって、隣の人の肩に手を置いて、そろりそろりと。
目をつぶっていると言っても、完全に閉じることは難しいし、薄ら光は入ってくるだろう。
それでも、足の裏や耳から驚くほどの情報を感じ取ったと、このワークショップに参加したメンターの方は言っていた。

普段視覚を使って生活していると忘れてしまっている感覚。それらの感覚を意識することによって、自分の「キャパシティ」が拡がることを実感したそうだ。

プログラムの受講生たちによる最終発表を見せてもらった。
映像、朗読、インスタレーション、戯曲、など多岐にわたる作品の数々だった。
作品の多くには言葉が使われていた。

その言葉を眺めていると、私が普段使う言葉とは種類が違うような印象を受けた。
私は文章を書くとき、頭で考えていることを人に伝わりやすいように組み立てながら、言葉を紡いでいる。私の言葉は、なんというか熱が通っているような感じ。
一方、受講生たちの言葉は、感じたことがそのまま言葉になり、それが文字として表れているようで、みずみずしくて鮮やかだった。

私は随分長い間、こんなに鮮やかな言葉を発していない気がする。
受講生たちを前に、自分の身体性の衰えを感じた。

頭でばかり考えて、きっと身体で感じたことも、すでに知っている言葉をあてはめて強引に自分のものにしようとしている。
それはもはや、感じていると呼べないのではないかと不安になる。
いつからこんなに、わからないことを恐れるようになったのか。

身体で感じることは、わからないことだらけだ。わからないことをそのまま感じたままにしまっておき、いつかそれらが組み合わさって、たしかな感覚となっていく。
わからないことはそのままに、感じたままにしておくということが、きっと昔はできていた。

カナダの先住民イヌイットは、雪の天候を表す言葉を100ほど持っているそうだ。
イヌイットのインタビューを英語に訳そうとしても、イヌイットの言葉で英語に対応するものがないために、訳せないのだという。
英語で雪を表そうとすると、snow一語にまとめられてしまう、というふうに。

わからないことをわかることにまとめてしまうと、その過程で失われてしまうものがたしかにある。
そうして失われてきたたくさんのことのなかに、もしかしたら大切なことがあったのかもしれない。

身体で感じる感覚を大切にしたいと、そう感じる経験だった。

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