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新型コロナウィルス反応とコミュニティの欠如

世の中はスポーツクラブやヨガスタジオの休館や営業変更対応がとられていますが、そんな中でも施設を開けて通常営業を続けるなかで思うことが多々ある。

私は常にうちのような小さな施設は、コミュニティにおける相談所/保健室の役割を担うことができると考えている。

実際に今の修学院という少し不便とも言える場所を選んだのも、地域密着、生まれた時からその人が成人し社会に羽ばたき、時には地元に戻ってきた時も何かあれば私たちはそこにいる、長いおつきあいができるエリアだと思ったから。

子供からおじいちゃん、おばあちゃんまで。
家族みんなが立ち寄り、お互いの健康についてサポートできるコミュニティスペース、街の保健室でありたい、と。

今回のコロナウィルスの世間の反応を見ていて、その重要性は益々実感した。

振り返ってみよう。

国内での新型コロナウィルスの第1発見(陽性者)は、1月15日。

そこから武漢に住む日本人とその家族のチャーター便による避難帰国(第一便は1月28日)、2月3日のダイヤモンドプリンセス号の横浜への寄港と事態は加速していった。

厚生労働省のサイトでここまでの検査数と陽性者数、有症状者の数値などが発表されている。

この2ヶ月ほどの間は、日本国内の人々の反応は非常に興味深いものだった。

マスクの買い占め
トイレットペーパーの買い占め
明らかに根拠のないと言える情報の流布。

例えば

COVID-19は熱に弱く、25-26度の温度で死滅するから温かいお湯を飲むといい(人の体温は35度以上はある、これが本当だったらお湯を飲む意味がわからない、、、)

花崗岩がいいらしい(えっと、、、)

本当に誰がどんな目的で流した情報かわからないけど、全ての国民に教育を受ける権利があり(第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。)


基本的な義務教育を受けている国民が流す情報としてはいかがなものか、と、教育の意味と質を考えてしまった。

と、話は戻り。

今のカオスの一端には、「コミュニティ形成不全」があるのでは、と考えた。

コミュニティが機能していれば、自分で自分の身を守るためにあたふたと行動するだけでなく、コミュニティに属するみんなにとって最適な解はなにかを少しは考えて行動が変わるのではないか?と。

修学院でKyoto MBM Laboを始めて5年と少しが過ぎた。少ない人数で一人一人の顔と名前、どんな方かを把握できるサイズ感であり、通ってくださっている誰かが、子供やご両親、親戚や友人を紹介してくれるような場所。

年に1回の里帰りだったり、半年に1回の訪問だったり、毎週会う顔だったり、人それぞれ頻度は違えど、その人の時間の経過を共に感じながら、ゆっくりと信頼関係を築き、こういった有事の時に必要な情報を的確にお伝えできる環境ができたことは、よかったと思う。

このスタジオを通して、そのコミュニティが外に形成され、会員様同士が繋がりお互いをサポートしている姿が多くなってきた。

今日もひとりの方がトイレットペーパーを2パックもってレッスンに来たから、薬局で買ってきたのかと思ったら、トイレットペーパーがなくなるという他の会員の方のために持ってきた、、、と。

きっとコミュニティが機能していた時代には、こんな貸し借りが多く存在したのだと思う。

「お、お宅マスクないのかい!?」
「うちに余分があるから持っていきねぃ」(なぜかここは江戸弁)笑

「お礼、そんなもんはいらないぜぃ。困った時はお互い様よぅ」

なんて。

自分はなにもせずに、なにかがあれば誰かが助けてくれるという依存的な行動とは違う。

自分ができることを誰かのためにできる時はする。

そんな場は、普段のコミュニティ形成がなせるワザなのではないだろうか。

人は急に心を開くことはできない。

普段から身の回りの環境と人達を大切にしていくことが、これから不慮の事態が起こった時にきっと安心をもたらしてくれるはず。

ラボ(京都、栗東、芦屋)そして眠れる森の美女は、そんな場所でありたい。

皆さんはコミュニティ形成を大切にしていますか?

#新型コロナウィルスに思う

#コミュニティ

#チームとしての生き方




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