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わたしという誰かの演劇_016

 わたしのいるところで、演劇がはじまる。

わたし  なにを言おうとしていたのか、今日も忘れてしまった、そんなものはじめからなかったのかもしれないし、あったとしてもわたしはすでにしゃべりはじめてしまったので、言おうとしていたこととは関係なくわたしの話はつづきます、発された言葉の持つイメージや語感、それ自体が動力となって、滑るように、転がるように、知らない場所へとわたしたちを運んでいく、言葉は乗りもので、わたしはただそれに身を預けているだけなのかもしれない、こうして話していること自体について話しているわたしは、この場所に立ったまま、もうこの場所にはいない、からだはここにある、からだがここにあることとわたしがここにいることが重ならなくなったとき、わたしという誰かの演劇がはじまる、言葉に乗ったわたしを追いかけるように次の言葉を探すわたし、複数のわたしがこのからだを起点に存在しはじめて、わたしたちはバラバラになって、それぞれのわたしに手を振る、またね、もう二度と会えないと知りながら、そして演劇はつづく、役なんてなくても、ストーリーなんてなくても、わたしという誰かの演劇はつづいていく、そうだ、東京ではじめて暮らしたアパート、万が一なくしたときのためにと思って合鍵をつくっていたけれど、結局引っ越すまでにわたしが鍵をなくすことは一度もなくって、でもその鍵をまったく使わないのはもったいない、いや、もったいないなんてことはほんとは全然ないんだけど、わたしはその鍵を一度は使ってみたくなって、アパートを出る日、はじめて鍵穴に差し込んだ、ん、なんで、うそ、入らない、入らなかった、鍵穴に入らない合鍵をいつも使っていた鍵と見比べてみる、かたちはおなじだけど合鍵のほうがなんだかちょっと太って見えた、どうしてつくった日に気づかなかったんだろう、どうして一度も試してみなかったんだろう、合鍵は今日でもう必要ない、合鍵は最初からこの部屋を、いやこの部屋だけじゃなくてどの部屋も、開けられなかったし閉められなかった、合鍵に合う鍵穴は世界中どこにもなくて、じゃあ合鍵は合鍵じゃなかったのかっていったらそういうわけじゃない、合鍵は鍵穴に差すその瞬間までわたしにとっては合鍵でした、いつも使っていた鍵は大家さんに返した、合わない合鍵はいまも持っていて、新しい部屋のどこかにしまってある、どこにしまったかは忘れた、言おうとしていたことも思い出せない、たとえ思い出せたとしても、言おうとしていたわたしはここにはいないし、新しい部屋だってもう、新しくはない、

 また明日。

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