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苦労がそばにいたころ

 こんにちは。
 2、3年前まで苦労と一緒にいた泉かおるです。

 変な話しをするかもしれないんですが、皆さんは苦労って好きですか?
 私は以前、苦労が好きでよく一緒にいたんですけど、ある日「あ、ダメだ。無理だわ」ってなってから、苦労とは距離をとるようにしました。

 私の周りには苦労が好きな人がたくさんいます。
「苦労するから人間は成長できるのよ」
「あの人は苦労したから立派ね」
「昔の人は、みんな苦労したから、みんなすごい」
 などなど。

 でも「本当にそうなの?」と思ってしまいます。

 ご苦労された方々や、今、苦しんでおられる方々、年齢を重ねて来られた方々を否定するつもりはまったくありません。
 環境や時代的に苦労しなければならなかった方々もいらっしゃると思います。

 ただ、苦労するのが美徳だという考えに「ん?」と思ってしまうのです。

 苦労が好きな方って、たしかに強いです。
 自分を鼓舞して難題に取り組むし、「私がやってやるよ!」みたいな頼もしさもある。それだけの体力もあるのだろうなと思います。

 そうなんだけど、苦労好きな人のそばには、幸せはあんまり近寄らない気がします。(余計なお世話だよ! と思われたらすみません)
 変な想像ですが、自分のところに幸せが遊びにきたんだけど、そばに苦労が寄り添ってて、
「この人、私と相思相愛なの。あなたはあっち行ってなさい」なんて言われたら、「あ、すみません……」って幸せが空気呼んで離れていきそうじゃないですか? (伝わってますかね?)

 でも苦労が好きな人って不思議なのが、苦労したら幸せになれると思ってるんですよね。私もそうでした。

なんで苦労を通過しないと幸せに辿りつけないんだろう?

 苦労って字を見ると、「苦しみを労わる」って書くじゃないですか。
 例えばですけど、「あー、今日の仕事大変だった! ビールうめー!」って苦労の一つの姿だと私は思ってます。
 以前の私は、苦しみばかり多くて、労わるってことをあんまりしなかった気がするんですよね。
(ここで苦労って字を見過ぎて、なんで、くさかんむりに古いって書くんだろ、とか思い始めてますけども。)

 で、気づいたのですが、私のそばにいたのって、実は苦労の顔した苦痛だったんですよね。
 怖くないですか? 私は気づいたとき怖かったです。自分の成長になるはずと思って好きだった苦労が、実は苦痛だったなんて。

 苦痛がそばにいたころの私は、なんでも請け負って、嫌なことをされても、絶対に怒りを表面化させず、張りついた笑顔で過ごしていました。   
 そのころの自分が嫌いかと言われたらそうではないけど、たしかによく頑張っていたから。

 ここまで書いて思ったのですが、今は自分を労っているので、あのときの「苦痛」が「苦労」になったのかな。

 とりあえず今日は自分を労って寝ます。
 みなさんのそばに幸せが寄り添いますように。
 おやすみなさい。

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