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ブッダの瞑想法−−10日間の心の手術 2009/09/16〜27[day1]

■9月17日(木)

 朝の4時、金属製のカーンと響く鐘の音で目が覚める。これまでの日常生活では、ともすればこれから寝る時間である。周囲の音が気にならないように耳栓をしていたので起きられるか心配だったが、どうやら鐘の音は聞こえるようである。
 トイレに向かうときに、洗面台で歯磨きをしていた人に思わず「おはようございます」と声をかけそうになったが、今は「聖なる沈黙」が指示されているため、声をかけることも目を合わせることもしてはいけない。感じの悪い人に思われそうな気がしたが、向こうも同じようなことを考えているのかもしれない。
 周囲はまだ真っ暗で、空には星空が広がっている。4時半に瞑想ホールに入る。何をすればいいのか指導がないので、昨夜のアーナーパーナ瞑想にトライする。あいかわらず呼吸に集中できず、考え事ばかりが頭をかけめぐる。そもそも、座禅のようにじっと座って精神集中をすることが嫌でここに来たので、すぐに足は痛くなるし、空想が止まらない。

 6時半に鐘の音が響き、しずしずと食堂に向かう。朝食はおかゆやパンなどで、僕はパンを焼いてコーヒーを飲む。スタッフから何か指示があるわけではなく、掲示板に貼ってあるスケジュールを確認する。朝食後は8時まで休憩時間なので、テントに戻って横になり、体を休める。
 8時から9時の間はグループ瞑想の時間で、全員が瞑想ホールに集まらなければいけない。ゴエンカ氏のパーリ語の詠唱が少しあり、そのあとで英語と日本語の指導が入る。昨夜と同じように、鼻から入ってくる息と出て行く息に神経を集中しなさいと言われる。自分の呼吸に意識を集中するのがこれほど難しいと思わなかった。
 少しの休憩を挟み、9時から11時まで同じように座って呼吸を観察する。朝からじっと座りっぱなしなので、何度も足を組み替え、目を開けて時計を見てしまうが、ほかの人は仏像のようにじっと動かない。あまりじろじろ見ては行けないので、また呼吸に集中しようと試みる。けれども足が痛く、瞑想ならぬ心は“迷走”するばかりだ。

 11時に鐘が鳴り、昼食の時間。言葉を交わせないし、ジェスチャーもしてはいけないので、目を合わせないように、体が触れないように気をつけながら、どんなメニューがあり、皿が必要か丼が必要かを考えてお盆に食器をセットする。基本的には、ご飯のほかに、おかずが一品。梅干しや黒豆味噌などの常備メニューはあるものの、質素な食事である。だからといって、がつがつ食べている人は少なく、みんな控えめの量を盛っている。昨夜は簡単な夕食があったが、スケジュールに夕食時間はなく、ティータイムがあるのみ。空腹に耐えられるか心配なので、たくさん食べておいたほうがいいかと思ってしまう。とりあえずいつもどおりの量に抑え、お腹の様子を見ながら食べる量を考えていくことにする。

 昼食のあとで休憩して、13時から14時15分まで瞑想する。空想僻はあいかわらずだが、そのうち考え事がなくなってきたのか、気がつくと呼吸に集中している時間が多くなっていた。すると、おもしろいことに気づいた。午前中は右の穴で呼吸していたのが、午後は左の穴で呼吸している。考えてみれば当たり前なのだが、そういう違いを意識することなく、ふだんは呼吸しているのだった。

 14時半からグループ瞑想。今度は両方の鼻の穴で呼吸をしている。風邪をひいたときに、右の鼻で呼吸したいのに詰まってしまい苦しく感じたことはないだろうか? 左側なら呼吸できるのに、呼吸したいほうの穴が詰まっていることもある。いったいなぜ、鼻の穴の左右が切り替わっているのだろうか? また切り替わるのはいつどのようなタイミングなのだろうか? 観察の対象ができたのでより集中できるようになった。左右の穴が切り替わるときは、エアコンの風を振り分けるルーバーが作動するように、ゆっくりとゆっくりと移動し、両方の穴で呼吸している時間を経たのち、反対側の呼吸に進むようだった。
 1時間のグループ瞑想が終わるものの、引き続きホールでの瞑想が続く。呼吸を観察して気づいたのは、呼吸にはムラがあるということだった。吸うときは直線的にすうーっと、吐くときは波打つようにふぅーっ、ふぅーっという感じが多い。また、空気の量も、吸うときは少なくて吐くときは多いときがあれば、たっぷり吸って少ししか吐き出さないときもある。体に必要な酸素の量は一定で、呼吸は安定していると思っていたのに、人間の体というのは不思議なものである。
 17時からティータイム。僕を含めた新しい生徒は飲み物のほかに果物が用意されているが、古い生徒はハーブティーなどしか飲むことが許されていない。バナナを1本、リンゴを1個食べてコーヒーを飲む。
 18時から3回目のグループ瞑想があり、その後、1時間半の日本語の講話を聞く。このときは足を組んで座らなくてもいいようなので助かった。

 一日目は大変だったでしょう。
 なぜ、座ることがこんなに難しいのだろう、
 なぜ、こんなに不快な思いをするのだろう、
 と感じた人もいることでしょう。

 声の主は、優しい口調で語りかける。呼吸に意識をおきながら、何かの言葉や神様の名前を唱えたり、物のイメージを思い描くことができれば、心の集中はもっと優しかったはずだという。けれども、ここではそれは許されていない。あくまでも、ただ自然な呼吸を観察することが求められる。それは心の集中が目的ではなく、その集中力をもって心の浄化を目的とするものだから。
 心は次から次へと常にさまよう習性を持っているという。今日はそれを身をもって経験したわけだが、心は呼吸であれ何であれ、ひとつの対象に留まるのを嫌う性質がある。心は常に過去のことや未来のことを考え、現在を生きることができない。この話を聞いて、妙に納得してしまった。脈絡なく次から次へと妄想が始まり、しかもそのひとつずつが完結しないままということも少なくない。そんな人が現実の社会にいたら、それは狂っていると思われてしまう。
 また、楽しいことを考えていることもあれば、足の痛みばかり気に取られてしまうこともある。楽しいことは「渇望」へ、足の痛みは「嫌悪」へ、そのどちらでもない「無知」へと、心はこの性質に覆われている。そして、心の苦しみのすべてはこの3つの要素から生まれるという。

 この瞑想法の最終目的は、
 心の否定的な面を少しずつ取り除いて行くことによって心を浄化し、
 苦悩から自由になることです。
 これは、心の奥底に隠されているさまざまな心の汚濁を掘り起こし、
 取り除くために行なう心の大手術です。
 みなさんが始めた呼吸の観察は、
 心の集中ばかりでなく、浄化も行ないます。
 息の流れに集中できた瞬間がほんの一瞬であっても、
 そのような瞬間こそが心の習性を変えるのです。
 息が鼻を出入りしていることには何の幻想もなく、
 もっと多くの息が欲しいと考えることも、
 息に対する嫌悪感もありません。

 考え事ばかり思い浮かんでしまう状態から、呼吸に集中して観察することができるようになり、自分の意外な面を発見しておもしろくなってきた。けれども、やはりじっと座っているのは苦手である。最初の3日は呼吸法をやることはどこかで読んでいたので、それまでは我慢が必要なようだ。

 講話のあと少しの休憩を挟んで、30分ほど瞑想する。このとき、翌日の課題が出される。今度は上唇を底辺として鼻までの三角形の部分に起こる感覚を観察しなさいとのことだった。けれども鼻の穴の出入り口に空気が触る感覚があるだけで、それ以外はまったくわからなかった。
 瞑想時間が終わり、質問がなければ休んでよいとのことなので、テントに戻って寝袋に入る。今日は新しい発見があった。明日はどんなことに気づくのだろうか?

イラスト|マシマタケシ

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