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美しいことばたち「芸術とわたし」


高校時代から色々なことばを集めています。
心に残したい名言、気になって調べた単語そしてその言葉の意味。スナックで知らないおじさんが歌ってて、次の日 頭の中でぐるぐるする歌詞、本の中の好きな台詞、などなど。とにかくなんでも。

「これ覚えておきたいな」となんとなく思った言葉を、自分の文字で書いてみる。そして集めた気になってみる。忘れた頃、時々読み返す。そしてまた忘れる。そんなことをもう10年近くやっています。

そんなノートに書いた「ことば」に、私の言葉を乗せて書いていきます。今回は一回目なので「芸術とわたし」というテーマにしようと思います。そんなテーマを第一回目に置いた理由をまずはつらつらと・・・

「芸術とわたし」というテーマについて

わたし月海舞由は普段、主に舞台役者を主軸として活動しています。
3歳からクラッシックバレエと日本舞踊を習っていて、小さい頃はバレリーナになるのが夢でした。6歳の時、舞台好きな母親に連れられて見に行った演劇の舞台。「つかこうへい」の「飛龍伝」というお芝居に感銘を受け、私はお芝居の世界に引き摺り込まれるように夢中になりました。

16歳の時、鴻上尚史さんの演劇ワークショップに通った時
「18歳までに色んなお芝居を見て、色んな映画を見て、本を読んだり音楽を聞いたりしなさい。絵も見なさい。それがあなたの表現者としてのこれからの道を沢山作ってくれるよ。」と言われました。

どういう意味なのだろうと、現代っ子の私は「人間は18歳までに」という言葉をいれ、Googleで検索。すると「常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。」 という言葉が出てきました。これは物理学者アルベルト・アインシュタインが残した言葉だそうです。相対性理論で有名なあっかんべーの人ですね。「人間は常に変化する生き物だが、根本的には個人の培われたものの中でしかなかなか変化できないものだ」みたいな感じでしょうか?感じ方はいろいろあると思います。

その言葉がなんとなく忘れられず、そこからの二年間、色んな作品に自ら触れにいきました。授業が終わると制服のまま劇場に通って、通学中の電車の中で本を読み、授業中バレないようにスマホで映画を見たり。(最後は見つかると怒られるのであまりお勧めしません)美術館にも行ってみたり、趣味じゃない音楽も聴いてみたりとにかくなんでも感じてみようと思いました。

それまでは正直、演劇の歴史を勉強してお芝居が上手くなるわけがない。踊れるようになるわけでもないのに。と思っていました。私は芸術系の高校に進学して「舞台芸術学科」という学校に通っていたので、授業に演劇と舞踊などの授業があり、授業の一環として色んな芸術に触れていました。でも、自分で触りに行かないと、芸術には触れられない。自分が同じところで待っていても、芸術は自分に触れにきてはくれない。のだとその時初めて気がつきました。

長くなってしまいましたが、今回、言葉を通して「芸術」に少しでも触れていただければ。そして興味を持っていただければ。一人の演劇人として、表現者として、とてもうれしいです。


人は人生を愛しているときは読書をしない。
それに、映画館にだってほとんど行かない。
何を言われようとも、
芸術の入り口は多かれ少なかれ、
人生に少しばかりうんざりしている人たちに用意されたのである。

H・P・ラヴクラフト「世界と人生に抗って」

この言葉は、少し悔しいような、でも救われるような、役者としてとても大事にしたい言葉です。

クラッシックバレエを習っている時、フランスに少しだけ留学していた事があります。その時のホームステイ先のご家族が、私を色んな芸術に出逢わせてくれました。毎週家族でバレエを見に行ったり、美術館に行ったり、オペラを見に行ったり。家族の誰かが芸術の仕事に携わっているわけでも、誰かの趣味でもなく、芸術はごく自然にすぐそばにありました。すぐそばにあって当たり前。と言う感じでした。生活の一部のような、習慣のような・・・

芸術に触れた後、家族で感想を話し合って、共感したり少し言い合ったり。そして明日は何を見に行こう、来週はどこへ行こうと、近い未来が楽しみになる。

芸術に触れる人が人生にうんざりしているかどうかは置いておいても、芸術に触れることで、人生を愛せるきっかけになればいいと、私は思う。


小説を読むことは
つまり死ぬ準備をすること
いつか
この世の全てに別れを告げる
練習をすること

江國香織「小説を読むことは」

小説を読むときに「」を意識した事がある人が世界にどれだけいるのだろう、と思う。

私は何故か、小さい頃から何故か過剰なほど「生」と「死」を、意識し続けて生きてきました。「人は死んだらどうなるのだろう」「どこにいくのだろう」「自分はいつまで生きられるのだろう」「でも死ぬのだったら若くて綺麗なうちがいいかもしれないな」「死に方は?どんな風に死んでしまうのだろう」「母は、いつまで生きてくれるだろう」

そんなことを考え出すと、夜も眠れなくなって意味もなく辛くなりました。そんな時にこの言葉に出逢えていたら、きっともっと多く穏やかな夜が過ごせたと思う。

この言葉自体に、どんな意図があるのかは分かりませんが、この言葉に出逢ってから、私は怖くなったり、寂しかったり、悲しかったり、思考がネガティブな方へ落ちていっているなと思ったら、まず本を読を読むことにしています。小説、詩、絵本、エッセイでもなんでも。とにかく、自分の内側の言葉と対面するのではなく、外の言葉と触れる時間を強制的につくる。すると自分の中の負の感情が、本の上の言葉にするする吸い込まれて、少しだけ身体が軽くなったような感覚になります。悲しい小説を読んで悲しくなっても、自分自身に本当に悲しいことが起こったわけではない。そのことをふと思い出す。小説を読むと言うことはもしかしたら、いつか来るかもしれない人生の練習をしているのかも。。

私だけかもしれませんがもしよければ試してみてつかーさい。


最も崇高な芸術は
人を幸せにすることである。
The noblest art is that of making others happy.

フィニアス・テイラー・バーナム(Phineas Taylor Barnum)

第一回目なのでね、こんなもので最後にしときましょう(本音。久しぶりに内面の言葉と向き合ったら疲れてしまった)

映画「グレイテスト・ショーマンのエンドロールの締めに出てくるこの言葉。とってもとっても好きな言葉です。

芸術はまさに多種多様、千差万別。色んな形があると思います。
美しいもの、汚いもの。派手なもの、細かいもの。感情的なもの、理性的なもの。いろいろな表現方法がある中で、見る人の生い立ち、年齢、感受性によってもまた色を変える。それに加え、時代や流行にも影響を受けますし、表現している人によっても色が変わるものですよね。全てがあべこべです。

ゴッホは死んでから有名になったとか、日本画は海外で価値を認められるまでは国内でなんの価値もなかっただとかもそうで、笑っているのに切なく感じたり、愛しているからこそ冷たくしたり。人間と同じく、あべこべで、正解も不正解も誰も決められないもの。芸術は人間にしか生み出せないもので、人間にしか受け取れないもの。当たり前っちゃ当たり前です。なのに、白黒つけたがる。分類したがる。まあそれも人間ですね。でもあべこべでいいし、あべこべがいい。またそこもあべこべです。

でもあべこべだからこそ、その中からその時の自分の白黒を選ぶことができる。それが芸術のほんの一部の、正体なのではないかと思います。(だといいなあ。。。)

まとまりのないnoteで失礼ですが、自己満ついでに最後にもうひとつ余談です。

失恋した時には無理して明るい曲を聴くより、あえて失恋ソングを聴いた方が立ち直りが早い、と聴いた事があって一回やってみた事があるのですが、私はもっと辛い気持ちになりました。でもきっと、辛い時に無理に明るいものに触れたらもっと辛くなる人もいるでしょうね。

芸術も人生も、至福に満ち溢れているものばかりではないし、幸せだけが人の心を動かすとは思いませんし、芸術は崇高であるべきなのか、なんてものはひとつ置いておいても、なんとなく選んでみた映画がハッピーエンドだと「でかした今日のわたしー!」って私は思います。

また書きます。

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