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40年前のはじめての仕事

私は理科系大学の卒業です。大学ではNECのTK80というPCボードのモニタ開発をしていていました。アセンブラ言語でTEACの磁気テープ記録装置の制御プログラムを書いていました。プログラミングが面白くて夢中になっていました。

学生時代に友人とバンドを組んで、シンセサイザーなどのキーボードを弾いていました。

音楽に関りつつプログラミングができるような仕事がしたいと、いくつか会社の面接を受け、希望が叶いました。

会社に入って配属されたのは電子キーボードの開発部門でした。はじめての仕事は子ども向けの音楽ゲーム付き電子キーボードのファームウェア開発でした。専用の液晶ディスプレイが付いていて、鍵盤を弾くと音符が表示されます。問題通りに弾けるかという「音当てゲーム」や、音階を動く音を同じ音で止める「スロットマシンゲーム」を考えて搭載しました。

ファームウェアは専用マイコンのアセンブラ言語です。大学での経験が多少役に立ちました。技術指導はOJT( On the Job Training:オンザジョブトレーニング)です。先輩の隣の席で先輩の指導で、PASCALという高級言語でPC上で動作をシミュレーションしてから、アセンブラ言語に移植する手法を教わりました。

入社早々に製品開発を手掛けることができたのは幸運でした。夢中になって、当時はけっこう遅くまで残業していました。

次の仕事は当時ヒットしていた任天堂ゲームウォッチを真似た携帯型の音楽ゲーム機です。試作機を作って、1オクターブの小さな鍵盤を弾くと音符に見たてたカエルがカスタム液晶画面で踊るというものでした。デザイン部門の先輩と議論しながらカエルのデザインを考えました。ゲームは最初の電子キーボードに搭載した音当てゲームです。日曜日に社員の子どもを集めてモニタテストをしました。

しかしコストが高く市場も見えないというのでお蔵入りになりました。

そんな時に会社の営業部の全社プロジェクトが始まり、私は販売店に9ヶ月間出向することになります。なぜそうなったのかというと、自己申告時に営業体験もしてみたいと書いてしまったからです。

仕事は訪問販売でした。ロールプレイングで営業トークの練習をさせられました。「ドアが開いたら成功だ」「その気になったら一気にクロージングだ」
気が重くなり、逃げ出したくなりました。

5人のチームで販売店に派遣されました。アパートが決まるまで1ヶ月間ビジネスホテルから通うことになりました。ホテルのレストランが中華料理店で5人ために賄い料理が出されました。食事が毎日中華なのは飽きましたが、ホテル住まいは快適でした。

販売店は郊外の駅前のビルで1階に小さな店舗、4階に事務所がありました。さっそく訪問販売です。5人は会社のバンに乗せられて郊外の団地に連れて行かれました。高層のアパートが林立しているところです。1人2棟ずつ当てがわれ、昼に団地内のレストランに集合するということで分散しました。

いよいよ実戦です。重い気持ちで階段を登っていきました。

◇◇

他のメンバーが着々と成果を出し始めても私はいっこうに成約できませんでした。当時も留守宅が多く、訪問で会うことは難しかったのです。在宅でも社名を言うだけで断られてドアは開きません。

留守宅が多くて会話すらできなかった日、ターゲットのママ達が団地の公園で話しているのを見つけました。意を決してその輪の中に入って、声をかけて見ました。当然成約にはつながりませんでしたが、話ができただけでも嬉しかったのです。

ある時は、すんなりドアが開きました。すると出てきたのはお父さんでした。父親にはちょっとひるみましたが、話をじっくり聞いてくれました。成約するかなと期待していましたが、「お疲れさん。頑張っているけれど、もうひとつだねぇ。わたしも若い頃はそうだったよ」と言われました。

それでも1ヶ月経つと「待っていました」というお客さまに出会うことができて成約できました。

◇◇

9ヶ月後私は約束通り元の職場に戻ることができましたが、この体験で学んだことは多く、その後の人生において大いに役立ったのです。


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