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激突! 断食拳~醜い脂肪よ一歩前に出ろキェーッ!~

第一章 男の決意

 俺の名は平尾。五十代のサラリーマンだ。年々残業の疲れが抜けきれず、今朝も寝過ごさないよう気持ち早めにアラームをセットし、遅刻しないよう家を出た。
 休日に洗車する気力もなく、薄汚れたマイカーを会社横の青空駐車場に停める。始業の四十分前なので、まだ停まっている車はまばらだ。ノロノロとした動作でシートベルトを外し、スローな動作で車から出る。動きに機敏さは全くない。小鳥が近くでさえずっているというのに、朝から全身が疲れ切っている。
 あくびをしながら背伸びをし、長年通い続けた会社ビルを見上げる。ビルの屋上には『山名印刷』の看板が近くを走る高架の高速道路からも見えるように掲げられていた。
 あくびから出た涙で視界がゆがむと、俺はその場でプチイナバウアーのポーズを取って無理矢理企業戦士のスイッチを入れた。重い足取りで会社の正門に向かって歩き出す。疲れからくるその足取りは重い。なんという弱々しい企業戦士か。
 何度もまばたきをして、あくびから出た涙でにじんだ視界を元に戻すと数メートル先に、同期の田元の歩く姿が見えた。
『早い出勤だな。でもアイツの場合、遅刻しないため、ってよりもバリバリ仕事をこなすためだから、俺とは真逆か』
 そんなことを自虐的に考えながら歩いていると、門を入ってすぐの所に設けられたガラス張りの守衛詰め所から、年老いた警備員が出勤する社員に気付き、慌てて表に出て会釈をした。
 先を歩く田元はその老警備員の会釈を、気持ち哀れみを含む小馬鹿にしたような態度で、門を通り抜ける際、声を出さず軽く左手を挙げるだけにとどまった。
『すっかり大物気取りだな。役員を目指す上昇志向の態度は違うな』
 目の前の老警備員は、冷たい態度に仕方ないか、という諦めた表情で今度は俺の姿に気付き同じように会釈をしてきた。
 俺は老警備員の目をしっかりと見ながら名札で相手の名前を確認し、目上の相手に敬意を込めて深く頭を下げた。
「千葉さん、おはようございます」
 先ほど無言で通り抜けられた次だから、よほど嬉しかったのか、老警備員はニコニコとしながら近寄ってきた。
「おはよう平尾くん。早いね」
「いえいえ、気を抜くとすぐ二度寝して遅刻してしまうんですよー」
「それにしても君は偉いね。最近の人は会釈を返さない子もいるけど、君は長年、相手の目を見ながらしっかり会釈を返してくるね」
 そんなことを褒められるとは思ってもみなかった。
「千葉さんってこの会社のOBさんですよね。なら大先輩じゃないですか。目上の人には礼節を、ですよ。それに千葉さんって少し、俺の親父に似てるんですよ。もし親父が再就職して、その先で若い奴にシカトされてたら、やっぱ悲しいじゃないですか」
 俺は喋りながら目の前の老警備員を観察する。身長はそんなに高くもなく、年齢は七十代後半であろうか。警官のような警備服はスリムに着こなされ、無駄肉はなくニコニコとはしているが眼光は鋭かった。現役時に営業成績が良かったのだろうか、そういうお情けで定年後も長年の功労のご褒美として、守衛の詰め所勤めを任されているのかもしれない。
「えらい、よい心がけだ。君は出世はせんが、イイ奴だな」
「あちゃー、キツいっすね。笑えませんよ千葉さん」
 早朝、会社の正門で談笑。振り向いてもまだ早いので、俺の後に続けて出勤してくる社員の姿はまだ見えなかった。ビルに入ってもベルが鳴るまで机に座るだけだ。時間つぶしではないが、俺はもう少し話をしていこう、と思った。この出会いが、今後の俺の人生を大きく変えてしまうことになろうとは、この時は知る由もなかった。
「それにしても平尾くん、若い頃は痩せていたのに太ったね。今何キロある?」
「七十四キロです」
「太りすぎだな」
 老警備員は腕組みしながら、俺の身体を品定めでもするかのように、ジロジロとなめ回しながら観察した。
「色んなダイエットを試してみたんですが、全然成果が出なくて……」
 俺は正直なところを話した。するとその言葉を聞くや否や、老警備員の眼の奥に炎が宿った。
「痩せたいのか?」
「え? そりゃできることなら痩せたいですけど、前にスポーツジムに二年通ったんですけど無理だったんですよ」
「真剣にワシに弟子入りする気はあるか?」
「へ?」
 俺が間の抜けた返事をし終わる前に、老警備員の怪鳥音が会社の敷地内に響き渡った。
「キエエェェェーッ!」
 全く隙のない構えから、素早く右手が伸び、その手はむんずと、容赦なく俺のだらしのない腹回りの精肉を鷲掴みにした。
「ええーっ? な、なんですかっ、千葉さん」
「醜い。醜いぞ平尾くん。なんだ、この贅肉は。国語辞典、いや、コロコロコミックくらいあるじゃないか。君は情けないとは思わんのかね?」
「いや、どうにかしたいとは日々思ってますけど、いきなりなんですか? これは」
「いや、すまんすまん。昔ジャッキーチェンのカンフー映画が流行ったじゃろ。ワシはあれが好きでな。歳を取ったら、若者に己の智恵を授ける師匠、というものに憧れておったんじゃ。遂にこの日が来たか」
 後退し、腹の鷲掴み攻撃から逃げる。己の智恵? 確かに目の前の老警備員には無駄肉など付いてはいない。
「平尾くん、君は二十五の時の結婚じゃったな。なぜ結婚後猛烈に太った」
「そりゃ嫁さんが夕飯を残したら、猛烈に怒り狂って怖かったからですよ」
「変形の幸せ太り、とでも言うべきか。あれは忘れもせん。君の結婚式の翌日、この詰め所の前で何があったと思う?」
「えっ? 何かあったんですか?」
「昔、吉岡さんという可愛らしい娘がおったじゃろ」
「お、覚えてます。版下の。めっちゃ可愛い、小池栄子に似た巨乳の女の子でしたよね。忘れもしません。その吉岡さんがどうしたんですか?」
「ワシがいつものように出勤してくる社員に会釈をしておったらな、吉岡さん元気なく涙目で出勤してきてな『どうした?』と尋ねたら『平尾さん結婚しちゃったんですね』と小声で言うてきてな」
「マジっすかーっ! なんでそんな大事なことを二十年も黙っておくんですかーっ」
「おぉ、ここだけ小説から切り離されて、魂の篭もった血の叫びのように聞こえるのぅ」
「え? ならこっちから一声かけたら速攻食えたってことっすか? 吉岡ちゃん」
「食えたじゃろうのぅ。オマエの結婚で泣いとったからのぅ」
「全く気が付かなかった。なんてことを」
「おいおい、胸ぐらを掴むな。ワシは大先輩じゃぞ」
「それ聞いてれば、みんな狙ってた吉岡ちゃん、食えたってことっすよねー」
「何を言い出すんじゃ。オマエは新婚さんだったじゃろ」
「グレーっすよね。結婚前にそういう情報を聞いてれば、食っても法律的にはグレーっすよね。結婚前の遊び収め的なことを貴方は握りつぶしたってことっすよねー」
「オマエ、人柄は良いのに、倫理的にはボロボロじゃな」
「だいぶ前に吉岡ちゃん辞めてしまいましたよね。連絡先知りませんか? 教えてくださいよ」
「知らん知らん。知っとっても知らん」
 俺は愕然としたままその場で立ち尽くしてしまった。ドラマのような人生が、平凡な己の身に起こっていたとは。結婚して他部署の女性に泣かれる、って男冥利に尽きる話ではないか。おっぱい大きかったなぁ、吉岡ちゃん。絶対無理筋だと思ってたのに、そうだったの? 早く言ってよ。
「何執筆の手を止めて郷愁にふけっておるのじゃ。結婚後、そんな情報をオマエの耳に入れたら、絶対にヤバいことになったはずじゃろ。同僚の判断は全員正しかったってことじゃ」
「それをこのタイミングで聞くのも辛すぎっす。逃げた魚が巨大すぎて立ち直れません」
「何間抜けな事を言うとるんじゃ。話を戻すぞ。それはオマエがスリムだったからドラマティックな事にかすった、ってことじゃ。今のだらしないオマエの身体には無縁の話」
「ぐうぅ」
「ワシに弟子入りするか?」
 老警備員の背後に炎が幻視できた。

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