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母が急逝しました


突然、母が倒れた

2023年末、どうにか私も退院後それなりに無事に大晦日を迎えたのですが、今にして思うと、この頃から母の具合が悪かったのだと思います。
喉が痛い、少し気持ち悪い、と言っていて、本人は疲れていたし寒くなってきたので風邪気味だと思っていたようでした。しかし、喉は風邪薬で収まってくる範囲だったものの、気持ち悪さはなかなか収まりませんでした。
がんの手術を数回した父や、脳梗塞繰り返した私と違って、母は本人は病院嫌いだし元気だと信じていました。
しかし、年明けて、正月になっても体調は落ち着かず。1/2になると、胃の他に、腰が痛いと言うように。様子からして、単純な腰痛じゃない気がしたので、正月休みが終わったらすぐに私の行きつけの内科を受診するように言いました。実際、1/5からだったので、すぐ電話する予定でした。
早めに病院で診察してもらえば、対処できるだろうと思っていたのだけれど、しかし1/3、状況は急変しました。
当日は朝からすごくだるそうな様子でした。立つのも辛そうで、少し手がきちんと握れて感じがあり、若干呂律が怪しい気もしました。さすがにまずいと思ったのですが、本人は少し休めば大丈夫といい、実際多少回復しつつはありました。
けれども、その後、3時間と経たず、トイレに行ったあと、突然トイレから急に倒れて転がりでてきました。慌てて、声をかけたのですが、苦しそうにしていてほとんど反応がない状況でした。迷っている場合ではないので、救急車を呼びました。

応答がなく、手も全く動かない

救急車から救急隊員からの指示で、目の確認と、脈の確認をしたが反応がない為、指示にしたがって心臓マッサージをして到着を待ちました。
ここで問題だったのは、心臓マッサージの経験が全くなかったので、力加減が分からず、力が足りなかったのではないかと思っています。それでも必死に続けました。
やがて、救急車が到着し、すぐに各種処置が始まったのですが、回復傾向が見られないまま、病院まで運ばれたました。幸い、近所の病院に即時到着はしたのですが、結局、以後、心臓の鼓動が戻る事はありませんでした。

死因は急性心不全

解剖をした訳ではない為、症状からの推測ではあるんですが、病院に行かないし本人健康のつもりでいたものの、おそらく色々無理して家事し続けていただろう事や、父の行動にいらいらしている事も多くて、ストレス含め、心臓に負担がかかっていた可能性があります。何より、母方の祖父は大動脈解離で亡くなった上に高血圧でもあったし、私も高血圧なので、測っていないから知らなかっただけで、きっと母も高血圧だったんじゃないかな。
いくら元気なつもりでも、定期的に検査しないと気づけるものにも気づけない。市から来ていた健診案内は、父も母も、封筒を開けもせずしまい込んだままでした。もし1度でも言っていれば、リスクを把握できて、もっと早めに対処できたのかもなと思うと、悔しい。加えて、体調悪そうな母の様子を見て居ながら、即時救急車呼ぶ判断ができなかったのも後悔しています。実際自分がそういった状況になると、難しい。

遺体になった母の一時帰宅

葬儀会社に連絡し、一旦母を帰宅させ、2日後に葬儀会社の遺体安置室へ移送することに。
この時点で、母の体はすっかり冷たくなってしまった。ついさっきまで、私より高い体温で、可愛い動物の話等を一緒にしていたのに。死んでしまったことをいやでも実感させられました。
何より、私が入院している間も、毎日見舞いに来てくれて、サポートしてくれていたのに、結局何も恩を返せなかった。これからもっと親孝行しようと思っていたのに、何も出来ないうちに二度と話せなくなりました。
人の死はいつも突然だとわかってはいても、ずっと元気だったのに、今別れが来るとは思っていなかった。
しばらくは、葬儀やその他の確認や手続きで慌ただしい状況になったものの、哀しいよりもそれ以上に喪失感、無力感がすごかった。
もっと早いタイミングで救急車を呼ぶべきだったのではないか?心臓マッサージの練習をきちんと経験していれば救急車到着までの間にしっかりした措置ができたのではないか?何より、もっと前から親孝行を重ねていくべきだったと。

自分の体調も不安定に

このような状況なので、精神的なストレスが大きかったせいか、一週間ちょっとくらいは、血圧が劇的に上がってしまっていました。降圧剤飲んでいて100~110台だったのに、150~170の日々が続きました。更に、体重が急減し、一週間で3kg以上減りました。
入院中に5kg強減っていたので、通して10kg近く減った事になります。さすがにこれはやつれすぎですね。葬儀も終わり、母が担っていた家事全般、父の栄養管理や買い物洗濯すべてを私がやるようになって、慣れていくにつれ、ようやく体重は一旦安定し、血圧ももとに戻ってきました。ここまでで二週間強。ちゃんと食べないといけないということで買い物料理全部行うようになったものの、父は腎臓が良くないので、塩分カリウム等の調整が要るので(カリウム値は正常範囲に戻ったので病院からの制限はなくなってらしいけども、気をつけないとまた悪化するので、何より腎臓がんで片方摘出しているので)。父は母よりも5歳年上だけども、今も仕事するだけの体力はあるものの、でも80歳になるので、色々無理してはいけない高齢の域にあるので、自分で適当にやろうとする父を制止して私がやる日々。父方は祖母も叔母もわがままというか適当なところがあるので、これまでは母が全部管理していました。割と私は性格的には母寄りなので、見て見ぬふりできないので……。
遺品整理や廃棄は役所手続きや遺産相続諸々全部が終わってから、ゆっくりやっておくことになるけども、軽く確認した範囲からは、母がこまめにつけていた父の食事の塩分、カリウムの量の細かな計算と日々の記録がたくさん出てきました。やりすぎなくらい計量してきっちりやっていました。父はそんなことしなくて大丈夫の一点張りでよく口喧嘩しているのを見ていました。母は、弟が2人いて、長女だったので、気質的に自分がしっかりしないといけないと思っていた節があります。
私は一人っ子なので、そこまでしっかりした考えは持ってはいないけど、父寄りの雑な部分もあるものの、母寄りのきちんとしないといけないと思う性質の方が多い。
とはいえ、鬱やったこともあるし、掃除整理の余力余裕があまり持てないので、正直きちんとした生活をしていく自信がありません。日々疲れていた母も近年あまり掃除ゆる余裕なかったので、家が汚くなっているなと……。
昔は祖父母の家に行った時、なんか汚いなと思った思い出があるのだけれど、あれは昔からそうだったのではなく、歳を重ね、余力が無くなっていくことできれいな状態を維持しづらくなっていったのかもしれないな、と気づきました。
けれども、これからそうもいかないので、私がきちんとやっていかないと。
ということで、まずは色々覚えながら、丁寧な暮らしをしていこうと思います。無理しすぎない範囲で。

喪失感はなかなか埋まらない

悲しさは日々の暮らしで落ち着いていくものの、寂しさはどうにもならない。毎日していた他愛のない会話はもうできない、同じ動物、生き物好きで、私があちこちで撮ってきた生き物の写真を、もう二度と母に見せることができない。
祖父や祖母が無くなった時にはそんなに夢は見なかったけれど、母は2回も立て続けに夢枕に立ちました。
一度目は亡くなってすぐ。救命が間に合って生存できた世界線の夢。元気だと思い込まないで、無理しないでちゃんと検査していかないと駄目だよって話していました。起きた時に少し虚しくなりました。
二度目は、父と相談して霊園見学をして、墓を決めた日の夜。北海道の祖父母の墓は遠すぎて持っていっていられないので、近所に新たに墓を買うことにしました。私も長生き出来る気があまりしないので、永代供養付きの墓にしました。この日の夢は、母に「どんな墓にしたの?」って聞かれました。なので、桜が近くに並んでいて、霊園内にもバラやハナミズキが咲くよって伝えた。

親孝行、したいときに親はなし

とはよく言いますが、こんな今すぐ自分が実感するとは思いませんでした。
みなさんも、まだ親が元気であれば、今すぐした方がいいと感じます。あとでいいやというのは絶対後悔するので。
あと、心臓マッサージの練習、訓練は体験しておくべきだと思いました。
車の免許取る過程等でやるらしいけども、免許取らない人は経験する機会が少ないと思われるので。
最近は、日々、母の遺影にむかって、報告している今日このごろ。母が好きだった、めざましじゃんけんの結果やきょうのわんこの話とか。
母も私も写真撮られるの嫌いだったので、遺影に使える写真ほとんどなかったけれど、東日本大震災直後に、写真あった方がいいだろうと撮った数少ない写真を今回使ったのだけど、結果的に、明るい顔でまだ歳を重ねすぎてない明るい写真だったので良かったと思います。いかにも遺影みたいな無理やりな写真じゃないので、これなら写真嫌いの母も許してくれるんじゃないかな、と。

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