障害者クレーマーを産む3つの構造 #3

構造2:健常者と同じ生活を送る権利

「声をあげることで施設ができた」とは別の主張として「健常者と同じことを求めて何が悪い」というものがあります。
これは議論の発端となった伊是名夏子さんにはほぼ見られませんが「かわさきりょうた@車椅子からの言葉 」さんの「車椅子ユーザーはそれでも負けない 」の記事には多く見られます。
引用します。

「どうして同じ人間である車椅子ユーザーが旅行をしようと出かけて乗れるはずの電車に乗れず、目的地最寄りの駅で降りたいと願い行動しただけで」
「私も家族がいる身だ。家族旅行もそのうち計画するだろう、その際乗りたい電車に乗れなかったら家族の大切な時間を理不尽(カッコ内略)に奪われたなら怒るだろう。
車椅子ユーザーだから、もっとしおらしくするべき?
そんな変なことがあるか。」
「健常者が何気ない日常を楽しむのと同じように、障害者も同じ何気ない日常を楽しみたいだけなのに、それを望むとわがままだと罵られる。ということは、あなたがた車椅子ユーザーは私たちのように何気ない日常を楽しむ権利はないですよと暗に言っているのと同じです」

つまり「障害者でも健常者と同じ日常を得る権利があるべきだ」との主張です。類似の主張はBuzzFeedの記事にも見られます。
はっきり言えば「人権」という意味ではそんな権利はありません。
しかし感情としては理解できますし、倫理上の一つの立場とさえ言えます。
それは前回とは違う点です。

人権として

始めに人権の議論から。
「障害者と健常者に体験として同じ水準を求める権利」に該当する権利は存在しません。
法の下の平等は国家が国民を法的に平等に扱わなければならない権利であって、各人に平等の体験を保証する権利ではありません。
それに近いのは社会権ですが、「熱海に行く権利」のようなものは人間らしく生きるため最低限保証されなければならない権利と言えるようなものではありません。
幸福追求権に含むことはあり得ますが、少なくとも健常者と同水準まで保証するような性格のものではありません。

古来から現在に至るまで大抵の国家では財産権と相続をある程度認めており、各人が生まれながらにして異なる生活水準を保つのはむしろ人権の認めるところです。
何人もその腕や足が奪われるのは許されざること(死刑を除く)ですが、既に腕や足を失った人に必ずしも何かを与えるものではありません。

既に説明しましたが、「合理的配慮」もまたこうした権利を認めるものではありません。
努力義務に過ぎないことはもちろん、「負担が過重でないとき」に限る上「合理的」である限りです。
車椅子をで持ち上げろなんてのは合理的ではありませんし、過重です。

国家が存在しない自然状態を考えても障害者と健常者の日常は異なります。
従軍したのでもなければ障害は国家に帰責もできません。
無人島で一人で生きていたとしてもそうです。
一人で生きていても障害を負うことはあります。
自然権として素朴に認めることもできないでしょう。

付け加えると前述のように、彼らの主張からは「駅員」や「納税者」という視点が消えています。
障害者に権利があると同様、彼らにも権利があります。

ですから彼らが「権利」や「人権」の言葉で求めるのは、実際は全く異なる概念です。
どちらかと言えば共産主義の思想に近いですが、共産主義国において障害者が健常者と同じ日常など送れないのが現実です。
ただ理想であるという点は正しく、そうした用例の「権利」もありますが、「人権」という法的な概念と誤解してはいけません。

そもそもとして障害者の生活を健常者と全く同じ水準にまで引き上げることは現時点では不可能です。
「障害者と健常者で同じ体験ない」という理由が要求を正当化できるなら、どんな要求にも応じなければなりません。
「障害者より良い生活をしてるんだから金を出せ」という要求すら通るでしょう。
極端ですが、今回の件はそれと大差ありません。

最後に、非効率です。
予算には限りがあり、やりたいことの中からできることを取捨選択しなければなりません。
無人駅を利用する年数人の障害者のために施設を作ったり、四人も駅員を危険な仕事に従事させるのは割にあいません。
功利主義の立場でも否定できるでしょう。

障害者の不条理

彼らの感情をより正しく表す言葉は「権利」「人権」ではなく「不条理」「理不尽」ではないでしょうか。
彼らが健常者と同じ日常を送れない不条理であり、そもそも彼らが障害を負う不条理です。

世界は不条理に溢れています。少なくとも主観的にはそうです。
同じ努力しても報われない、偏見や好悪で判断される、能力を過少に評価される、事故や犯罪の被害に遭う、マスコミやネットに攻撃される。
身体障害は誰もが経験する死を除き、その極端なものです。

身体刑は現在ではほぼ存在せず、金銭でのやり取りも稀です。
ありがちな思考実験での「いくらなら身体の欠損に応じるか」への答えも大概は生涯年収を超えます。
逆に言えば障害者は多額の金銭的補償や罰の免除を受けたとしても「不条理」であることは、ほとんどの人が認めるでしょう。
仮に何か危険なことをしたからだとしても、結果が割に合いません。

しかし「自分にとっての不条理をなくすためなら、多少の不正が許される」ということはありません。
出先で財布を無くしたからと自転車を盗んで帰れば泥棒です。
家が放火されたからと他人の家に押し入れば犯罪者です。
同じように健常者と同様に旅行したいからと駅員に車椅子を持ち上げろなどとしつこく要求するのは悪質なクレイマーでありハラスメントです。

とはいえ正しくないとしても感情として理解はできるし、多少の情状酌量はできるでしょう。
怒るのももっともです。
ただ単純に、正しくはありません。

「不条理」という概念自体は曖昧で、ここで行ったのは倫理として厳密な議論とは言えません。
不条理化否かは概ねその人の期待や正義感に基づきますが、それらは権利と違い必ずしも正当とは限りません。
多分に感情論の世界です。
それでも無視できない視点なのも事実です。

「最も苦しんでる人から助ける」戦略

「不条理」とは別の視点で「最も苦しんでいる人から助けるべきだ」という思想も背景にあります。
これは政治の議論でどこでも見られる「自分に恩恵のある政策のみが正しく、それ以外は無駄遣いだ」に近いですが、一定の意義はあります。

・功利主義と限界効用逓減の法則から考えると、最貧層への支援が合理的。
・国家/世界にとって最低限の水準を引き上げることは全体に利益がある。人間らしさ・安心に繋がる。
・人々には一定の水準以上を生きる権利があるはずだ。
・問題は一つづつ解決するべきだ。

ただし今回の場合、無人駅への駅員や設備の投資は極めて非効率的なので一つ目の理由は適用できません。あくまで一般論です。

寄付先を選択する時などはこの戦略に従う人は多いでしょう(もちろん同胞や友好国への寄付という視点もありますが)。
せっかく寄付するなら「飢えたアフリカの黒人」(このステレオタイプの妥当性は別にして)を助けたいと思うのは当然です。
米国の白人貧困層がより豊かな黒人より自分たちを優先して支援するように求めるのも近い例です(これについて個人的に思うところ:私のツイート)。

一方でいくつか問題もあります。
第一はインセンティブの問題で、最貧層近くの人がわざわざ努力をしなくなります。
これは生活保護の議論でよくありますが、わざわざ障害者になろうという人はいないので今回では妥当とは言えません。
とはいえインセンティブの設計は重大な国家の役割であり、障害者への支援を最優先させるわけにはいきません。

第二は未来への投資という視点です。
国家は人々の未来の為に様々な投資をしなければなりません。
大半の国家の支出はその将来を見据えてのことで、障害者の支援を最優先するのはそれに反します。

第三は平等です。
国家から見た場合、最も困難な立場にある障害者を支援するなら、ある程度困っている人にも支援しなければなりません。支出としてはその方が公平です。
法の下の平等も国家が国民を平等に扱うことを求めており、国民が平等な生活を保つことは求めていません。

第四に効率という視点です。
「合理的」配慮の言葉にもあるように、無人駅でも障害者と健常者が同じ水準で利用できるように求めるのは単純に非効率です。
障害者の生活のためだけに無人駅も片っ端からエレベーター整備する国は単純に愚かでしょう。

第五に民主主義的決定という視点です。
結局のところ、この国は民主主義国家でありそれに基づいてこのような決定がなされています。
それは正当であるはず、というのは強力な理由です。
ただ障害者が過半を占める国家は存在せず、そこでは健常者を奴隷とするような決定に至るのかもしれません。
もちろん民主主義にも特有の誤りはありますし、完璧ではありません。

第六にそもそも車椅子を利用している障害者が「最も苦しんでいる人」なのか、という問題です。
足の障害より全身のまひ、あるいは臨死の患者の方が苦しいでしょう。
一国の持つ全ての資産を投じても彼ら全てを健常者と同じ水準にまで回復することは不可能でしょう。
その場合より苦しい彼ら優先して、車椅子ユーザーには何もしないというのを彼らは許容するでしょうか?

これらの問題を踏まえても、「最も苦しんでいる人から助けるべきだ」という主張を完全には否定できません。
私としてはこれは「一つの倫理的な立場」とみなしうると考えます。
ただ我々が、世界中のどこであれ、採用しない非現実的な立場です。

理想と現実

可能であれば障害者が健常者と同じ水準で生活できことが理想です。
あらゆる駅にエレベーターがあり、可能な限りの介助があり、あらゆる貧困が取り除かれる日がいつか来るかもしれません。
しかしその日までは我々は限られたリソースという現実でできることをしなければなりません。

支援を増やす方法は大きく分けて三つです。
第一は全体が豊かになること。
第二は効率を改善すること。
第三は支援の割合を増やすことです。

支援を受ける側にとって時に第三の方法が最も簡単に見えます。
駅員を1時間拘束すればより大きな被害を避けるため駅員4人を無人駅に派遣させることができます。
そして場合によっては暴力を持って「謝罪」をさせ自分たちの「正しさ」も証明できます。
しかしそれは全体としての支援を増やすことには必ずしもつながらず、我々の社会に害をもたらします。

第二の方法、効率を改善するのは簡単です。
予め電話して、無理なら計画を練り直すことです。
場合によっては各事業者もできる限りの努力をするでしょう。

第一の方法は途方もないことに思えます。
税収やGDPの拡大はあらゆる国家や企業が目標とするところです。
しかしできることから始めるのはそう難しいことではありません。

何かをやって貰えれば内心で当然だと思っても会釈程度はする。
気付いたことがあれば普通に伝える。
クレーマーのような行動はしない。

もちろんそうしないのも勝手です。法に反しないなら愚行権です。
特に感謝は内心の問題で、その性質上強いるべきではありません。
しかしそれこそ我々が世界をよくする方法です。
駅員を脅してマスコミを使い脅迫することはその逆です。

実際のところ、過去障害者福祉が向上してきたのは社会全体が豊かになったからです。
決して活動家の行動が理由ではありません。
我々は障害者であれ老人であれ外国人であれ、様々な人々が快適に生きられる社会を豊かだと思いますし、それを望みます。
しかし人々が貧しく産業が未発展であれば先にやるべきことが山積みです。

障害者は苦しい?

障害者が苦しい、健常者と同じ生活が送れていない、生活として単純な優劣関係にあると考えるかは人によります。

機能的には単純な優劣関係です。
足がある方が動けて便利、手がある方がものが操作できて便利。
指については四本より五本、五本より六本が良いかは様々な指の本数を持つ動物が居ることから考えると難しいです。しかし概ね多い方が良いでしょう。
義手義足技術が発展してもそのままが良いと考える障害者は少ないでしょう。
もちろん今回の場合、機能は行動範囲として如実に影響します。
障害者になることを望む健常者もいません。

一方で「個性だ」という立場もあります。
個性だからなんだという話ですが、要は誰もが持つ個人差の延長であり、多様性であり優劣ではないという議論です。
これは客観的根拠が背景にある真実であるというより、何らかの効果を持つ機能的言説だと考えられます。
が少なくとも「単純な優劣ではない」と考える人が一定数居るのも事実です。
なお「個性であるので支援は必要ない」との主張にも利用されかねない思想ではあります。

先天的な障害の場合、比較可能かという問題もあります。
後天的な障害であれば「もし~がなければ」という可能世界(仮定の世界)は現実的に想像できます。比較対象は自分です。
そうでない場合は産まれていないことと比較することは不可能で、「私が他人なら」との仮定は不可能で、仮に他人でありうるなら虫や動物や他国人であってもおかしくないのではという疑問が自然に浮かびます。
これは出生前診断や虐待の議論で時折問題になる倫理学上の問題です。

他には「その人を構成する要素」という議論もあります。
これは私としては別の場所で詳しく論じましたが、簡単に言えば「それがなければ今の私ではなかった」という話です。
可能世界の私が自分と同一だとは言えないし、私は他人であるより私でありたい、なら障害は私にとって望ましいことであったということです。

補足:意外なことですがこの議論は恋愛の場でも見られます。
いわゆる「運命」の正体です。
あの時「あの時遠回りをしたから今の恋人に出会えた。だから正しかった」「恋人の存在が自分を大きく変えた。そうでなかった自分は考えられない。運命だ」というパターンです。
もちろん遠回りは一般には最適な行動ではありませんし、決定論が感覚で分かるわけもありません。
しかし自分を同一と見做せないほど決定的な変化を与えた出来事を否定できないというのは時折あることで、それが良い場合もあります。

要するに議論の余地がある問題です。
障害者の中でも立場は差があるように見える問題です。
その人の経験や関わってきた人達に影響されるように思えます。
例えば障害者の多い学校で過ごした人なら「健常者と同じ生活ができないのは不条理だ」とはあまり考えない傾向にあるでしょう。
つまり「無人駅に行けないのは私らしさ」「まだ外で楽しめるのは幸福」だなどと考えるかもしれません。
しかしそうでない人がいるのも当然です。

冒頭にも書きましたが、私が見る限り伊是名夏子さんにはあまりその傾向はみられないように思えます。
一方で「かわさきりょうた@車椅子からの言葉 」さんはまさにその前提で議論をしているようです。

少なくとも言えるのは機能的な優劣というものは存在するということです。
客観的事実と都合の良い言説が別であるのもまた真実です。
それ以上のことはなんとも言えません。

< #2 構造1:「社会への貢献」という幻想#4 構造3:マスメディア・謝罪・捏造 >

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?