人生は刺激的なのか   VTuberは生きている

Weekly Ochiai 落合陽一×東浩紀の新しい対談を見た。

産業、消費、コンテンツのAI化に対する、
人類の対極的態度が見れて、大変な傑作だった。

きっと、高性能AIの出現に対して、
人間とは、意識とは何かを自問するタイプと、
そんなことはどうでもよい(よくなる)タイプで分かれ、
その思想の違いは、真面目に今後の戦争の火種となるだろう。

その勝敗の結果として、偽・新人類の区別、
あるいは旧・新人類の区別が生まれる。

ただし、どちらの思想でも共通することは、
生物的な生殖から浮遊する個体が増える可能性である。


話を戻そう。
ここまで二人の視点が大きく異なるのは、
根本的にAI問題に対して立てる主題が異なる。

東は、「人間の意識とはなにか?」を問うが、
落合は、「人間の真偽の判定基準は?」を問とし、
何なら「その判定をクリアする方法は」を問うている。

落合にとって、人間の意識についての問は、
「それも計算である」(んじゃね?)という解がでている。
あるいはそもそも、そんな東的な主題は立てていないのだ。

だから両者の対談は、毎回上滑りしていく。
それは、「哲学者×哲学的ゾンビショー」としては面白い。

ただし、主題が違うと語る意味もないので、
ここでは落合的「人間の真偽判定」の主題を考えたい。

真偽の判定。つまりリアルかフェイクか。現実か虚構か。
この問いは、私自身何度も書いた(ような気がする)。

例に漏れず、その判定を価値の核とする文化を参照したい。
そう、ラッパーの文化、ヒップホップである。

ヒップホップは、まさにその真偽が価値の中核にある。
何を言おうが、それがフェイク、嘘っぱちなら価値はない。
ラッパーは、音楽性と共にその人間性を問われることになる。

こうした文化は、社会的弱者、経済的弱者の文化だった。
それは、選択肢のない彼らには、現実しかないからだ。
虚構とは縁遠く、そしてそれは何ら意味を持たない。
だから彼らは、夢を語るにも実を重要視した。

そんなストリートの文化が大衆化してきているのは、
もはや言うまでもなく大衆が社会的弱者に寄っているからだ。

もはや現実逃避にもならない空虚で無意味な虚像より、
自らの汚点や悩みの羅列のほうが現実味がある。

あるいはそれは自傷行為として機能している。
痛みで生の実感を感じるのためかもしれない。

何にせよ、そういう背景からヒップホップは大衆化した。
アンダーグラウンドがメインカルチャーと化したのは、
単純にアンダーグラウンドの住人が増えたからだ。

そんな中で起こっている変化の一つに、
VTuberとヒップホップの親和性がある。

具体例は多く雑多なので省略するが、
VTuberの中でのラッパー指向は少なくない。


対談の中でもVTuberに触れる箇所ががあるように、
VTuberとはそもそもが虚像の代表例であるのに、
なぜヒップホップとの親和性があるのか。

それは、結論から言うと、構造的な類似性にある。
要するに、ラッパーもVTuberも、同じ穴の狢なのだ。

それは、社会的弱者として、常識や役割に抑圧された、
個人の人格の発露であるという構造的な共通性である。

VTuberは、それを虚像というフィルターを挟んで投射する。
そして、寧ろその過程を挟むことで、それでも滲む人間性に、
視聴者は強化されたリアル感を感じることになる。

この、抑圧された個人の表現であるはずのものが、
さらに虚像により制限される表現形態を取る屈折の中、
その状態で内を曝け出すヒップホップを指向するのである。

この表現形態の抑圧の層が、その親和性の秘密であり、
また消費者も、キャラ的な振る舞いの抑圧に共感する。
それは、日常生活やSNSで規定された個人の役割として。

つまり、VTuberの虚像は、現実味の強化として作用する。
(こともある。全くキャラ消費全振りのVTuberもいる。)

何が言いたかったかといえば、VTuberの趨勢も、
単にフィクションの全盛というだけではなく、
リアル価値の希求という側面があるということだ。

ここで、「人間の真偽判定」という主題に戻ると、
それはそもそも、「真偽を希求する主体か否か」である。

身も蓋もないが、欲望の消費だけで良しとする人間か、
それともその中身に実があるかを重視する人間かどうかだ。

そういう意味では、VTuberとヒップホップのコンボは、
今のところ悪くない反応として受容できなくもない。

ただし、最近はそのへんの危機感を感じることが多い。
それは、TikTokのバズやYOASOBIの楽曲の流行りだ。

先日、散歩中に保育園の隣を歩いていたのだが、
聞き覚えのない合唱の曲が聞こえてきて、
最近は随分テクニカルな合唱曲があるな。
などと思ったが、よく聞くとYOASOBIのアイドルだった。

幼児にそんなもの歌わせるな。と思ってしまったが、
有線で流れるYOASOBIやTikTokの刺激的な曲を、
子供が歌い出すのは何ら珍しいことではない。

ただ、その光景に途轍もない違和感と恐怖を感じるのだ。
大げさに思われるかもしれないが、ギョッとしてしまう。

それは、歌詞の意味がエグくても、ナンセンスでも、
キャッチーな楽曲を刺激として幼少から接種している。

それは、「刺激=反応」であり、
落合のいう「意識=計算」と類似する。

これからの流行りを接種し続けた子どもたちは、
その虚実ではなく、いかに刺激的かを求めるのではないか。

それはまさに、真善美の価値基準を失った動物であり、
教育の敗北であり、そして人間性の敗北である。

…と思うのは、僕が人文学徒であり、東側だからだろうか。
何にせよYOASOBIは本当に罪深いなと思うのであった。



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