見出し画像

正義について

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
今回は、私が社会に対して、全く語る資格を持たないことについて書こうとしております。
大上段から世間へ知ろしめす! とならぬよう、できるだけ卑近なところから話を始め、いつものように無駄に攻撃的にならず、できるだけ穏当な結論を出せるよう、頑張ってみたいと思います。

75歳の九州男児が、女児に、
「公園のゴミを捨てろ、君が捨てたものじゃなくても片付けろ」
と言ったところ、
「あなたが捨てればいいじゃない」
と言われ激高して殴った、という話が話題になっておりました。

これについての感想、是非は、いったん置いておきます。

この話題で私は、別の、似たような話を思い出したのです。

混み合う新幹線で、自由席がいっぱいなため、指定席へ移ってみたところ、席が埋まってる中に一席だけの空席をみつけ、空いてますかと声をかけたところ、そこは……うろおぼえですが、ペットかなにかの席で、ちゃんとお金を出して買っているとの返答。他にも空いている席があったがそれも同じく買われているのだろうと、しかたなく自由席に戻り、子供を座らせている母親に空いてますかと尋ね、しぶしぶ子供を抱き上げた母親の隣席に座ったとのこと。
この話を当の本人は、「新幹線における三景」と称し、不可解だと締めた上で、明らかに不満顔の投稿を新聞にしたのでした。

あるいは。

正義感が生まれ持って強く、悪は許さない性格だが、老境に入ったあるとき、電車の中で足を広げて乗る若い男性のその足を蹴り上げたところ、殴り返され、医者の世話となり、女房に泣かれた。持て余す正義感をどうしたらいいのか、という人生相談をされた方もあります。
「昔は、老人の苦言は若い者は唯々と聞くべきであった」
という、人おしなべて長幼の序あるべし、という頭の凝り固まった様が透けて見えるような投稿でした。

さて。

これらを「老害」でくくってしまうと、そういう方は間違いなく年老いたときに紛う方なき「老害」になってしまうこと必然です。
……あーこの言い方は間違っていました。正しくは、
「誰もが等しく老害になる」
です。
別に、これらの件を老害でくくらなくとも、誰しも、老害には至ってしまう、というだけ。

ここで我々が考えるべきことは、老害を糾弾することではなく、これらは「今後も否応なく、自然発生的にそこかしこに発生する」だろう、
ということ。
そして、
「それらから、身を守るためにはどうしたらいいか、当事者側に巻き込まれないようにするための方策を持たねばならない」
ということです。

正義感は誰しももっていますが、核の色と様相はまさしく十人十色さまざまで、その周縁は緩く他者と交わりつつ、そこもまたさまざまな色をしているものです。
問題は、人間は誰しも、自分の持つ正義感ほどには自己を律することもないくせに、他人には自分の正義感の前に屈服してほしいという欲望を持ちやすいことでしょう。

ここから、以前語った社会主義、共産主義の話につなげることはたやすいのですが、今回はさすがにやめておきましょう。グロい話になってしまいます。
正義感というものは、それが自己の体内に醸造されていく過程で、それを違えるものを憎み、それが叶うと幸福回路が開き多幸感を得るような体質となっていきます。
それは麻薬のようでもあり、年を取るにつれてその自省が効かなくなってしまいます。
情動失禁、という言葉がありますが、正義感の発露とその成就による圧倒的多幸感、それを得たいと思う欲望もまた、あたかも失禁のように、ちょっと油断するとすぐ漏れるようになるのです。年を取ると。

で。
一定年齢になったところで社会から老人を排除すればいい、という話ではありません。なにしろ、排除は私のポリシーからはかけ離れております。この世の中は、「誰もが」「どんな人でも」必要な場所だ、と私は思っています。殺人者も、犯罪者も同様です。社会には彼らもまた必要なのです。
理由はいつか。

そもそも。
我々、50前後のBE-BOP世代は、若い頃から正義の発露をやってきちゃってます。気に入らない奴はぶん殴る。目を合わせた奴はぶん殴る。なめた口きくやつはぶん殴る。鎌倉武士かよ、という様相です。
私はもちろん殴られる側でありましたので、こんな奴らにはなりたくない、と思いながら大人になりましたが、大人になってみると日本人がすっかりおとなしくなっており、
「こんなにおとなしいのでは、逆に社会で生きにくくないか?」
とすら思ったほどです。

正義感の失禁は老人の専売特許ではなく、どちらかというと若い人の方がその欲望は強いのではないか、とすら思います。
お、若者批判か? と思われるかも知れません。ちょと違います。めがねをかけて人畜無害そうにタブレットや携帯を眺める人たちのことではなく、ある種の独特な格好で、街を集団で練り歩くタイプの人たちや、体にいろいろな模様を描くのがいかしてると考える人たちの話をしております。
相応の力がある、と、他者が判断したとき。彼らの正義の発露はなぜか、「しかたのないこと」として受け止められるのですねぇ。
力に弱いのですよ。人は。
老人になると同様の失禁がことさら批判されるのは、彼らに力がなくなったからではないか、とすら思います。

それでも。
このような正義の失禁に、付き合わされる方はたまったものではありません。あなたと私の正義は違うのです、というストーリーを、語って納得してもらう時間ももったいないですし、なにより言葉で納得できるような人は正義感失禁などしません。

こういう被害に遭わないためには、つまるところ、
「身を潜めて生きる」
という生活の知恵が必要である気がします。
声高に権利を主張したとき、大抵はその人は正義感失禁の標的になりやすいです。
一番目の、ゴミ問題。
老人の言葉も、女児の言葉も実は、一理あります。
問題はどこか。
女児の言葉は、「正しい正しくない」以前に、「人を怒らせやすい」言い方となっておりました。
また、老人は、「せっかく一見は正しい」ことを唱えたのに、「殴る」という、暴力に訴えたことで、自分の言葉ごと、「卑劣」の箱に自分を押し込めてしまいました。

新幹線の三景の話では。
指定席にて「ここ空いてますか」は、正直商慣習も理解できない胸くそ老人の戯言ですが。
混み合うのが分かってるような列車で、指定席を取ってペットにあてがう女性は、それ自体は正当な行為であるにせよ、ある種の「標的」となりかねない我の強さを発しております。

足を広げて座る若者に至っては、こっちの方が悪いと思います。自然な感情では。
ただ、蹴ってしまえばあとは「どっちの腕っ節が強いか勝負」を挑んだだけのこととなり、暴力支配する北斗の拳の世界での優劣を決着するしかなくなります。そこには正義はもはやありません。

権利とは、誰もがもちうるべき天与のもの、という感じがいたしますが、その場の空気や慣習や、「それで動いている」暗黙のルールなどに従わず、天与と思しき権利を振りかざすと、だいたいにおいて野放図な正義失禁の標的となりやすいです。

おお。そういえば。
私が話題にする某SNSとは、まさにその標的が自己主張する場ではありませんか。
自己に与えられているという権利の意識を、いったん弱め。
社会や場や、人が和やかに過ごせるだろう空気に、いったん自分を委ねてみる。少しだけ、自分を譲ってみる。
そうすることで、少なくとも野放図な正義感失禁の標的には、なりにくくなるのでは、と思うのです。

そしてそれは、訓練を重ねるうちに、いざ自分が老人となったとき。少しだけ正義感失禁を抑えうる働きもしてくれることでしょう。

そもそも。
世の大半の人たちは、正義感失禁など起こさず過ごしているのです。
一部の悪目立ちする人たちを指して、やれ老害だやれ最近の若者はと文句を垂れ一定のカテゴリーにふるい分けレッテル貼りをする、というのは。
いささか、狭量で先走ってるのかなぁ、なんて、このように思います。

正義はグレーが好ましい。
そうではなく。
正義は「内心に飼う」べきもので、「外部社会にまき散らし、付き従わせる」ものではない、ということです。

美しい正義は心の中だけにとどめ、外では人の正義に少しだけ寄り添ってあげ、その空気感だけでも合わせてあげる。
そのような品行の方だけが、この社会で平穏に、穏当に過ごせるのでは、と思ったりした一日でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?