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Orz

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
今回は、以前私が勝手に産みだした「性利己説」という人間の資質。これを元に政治形態を眺めると、社会主義のまずさが分かるよ、という、単なる軽い読み物の続きです。
きちんと論にするには、経済学、社会学などの肉付けがもっともっと必要なのですが、長くなっちゃうしぃ。
ってんで、面白そうなとこだけつまみ食い。結果週刊誌よりも怪しい読み物となりました。まる。
なお、性利己説ってのは、私の造語です。
詳しくはこちら。

社会主義が、なぜ独裁主義と親和性が高くなったのか。
あるいは、社会主義がいっこう社会を平等にしない理由は何か。
これは、世間一般で模範とされる「資本主義陣営側からの」回答としては、こんな感じかと。
「アダム・スミス言うところの『神の見えざる手』……市民が自由に経済活動を行った結果、社会全体で見れば適切な資産配分がなされる、という結論に抗い、不平等な資産配分を市民から取り上げ国家が管理することで、再分配を行うべきであるとしたのが社会主義あるいは共産主義である。
しかし社会主義・共産主義は、いわば『神』に成り代わって不完全で不合理な『人間』がたづなを握らざるをえない『国』にその管理を任せたことで、国の政策が不合理かつ不完全ならば資産の再分配もまた不合理で不完全にならざるを得ないのは自明だろう」
など。

(ただこの説明だと、資本主義だってその政策を握るのは人間で、人間自体が不合理なのにその営みが集団化すると急に合理的になることの説明が出来ていないため、不完全なんですよね。回答として。返す刀で、じゃ資本主義はどうなのよ、と言われかねない。そもそも、その疑問から生まれたのが社会主義という政治形態ですし。)

で、これを、善悪からはいったん距離を置き、人間の性善説性悪説改め、性利己説の観点から見てこう、それで、社会主義と独裁主義という本来正反対とも言うべき政治形態の不思議な親和性を探っていこうじゃないか、ってのが今回の要旨です。

前回の投稿、

で、私は
人間の本性を性利己、と捉えてみると、富の追求は、生来の人間が持つ利己心の発露として、自然な成り行きであり、社会からの利他の請求は「少ないほど個人への負担は少ない」
ということを述べました。

これは、性善説性悪説をとっていると見えてこないことなのですが、性善説性悪説ともに、弱点として、「勧善懲悪」の観点があるのですよ。
性善説の場合は、本来持つ善性を社会の汚れによって失い、悪性を持つにいたるので、この悪性は「潰す」必要がある(四徳を得られるようたゆまぬ努力をせねばならない)、と。
性悪説の場合は、本来持つ悪性を潰し、(多くは神の膝元にて己の悪行を懺悔し)善性を保ったまま社会で生きなければならない、と。
つまり、どちらの観点からも「悪」は「潰されなければならない」存在であったわけです。
ですから、マル・エンたちが、本来正当だったはずの資産家の経済活動における利益を、「剰余価値」と名付け、これをむさぼる資本家を「悪」と断罪してしまったことで、この悪を誅滅せんと二人が言い出しても、(経済学者からの熱烈な批判は今日まで断続的に続けられたものの)熱烈な賛同者を改心させるまでの力は得られなかったのであります。
(しかしまぁ、性悪説をとるにしても、人間の生来が悪であった、というなら、その生来の欲求をぶっ潰された人間ってただの抜け殻だろうによ、とは思うのですがねぇ)

しかし、人間が性利己である、生来備わった資質とは利己心である、と捉えるならば。
その本来欲求を「まるっと潰す」社会主義的発想というのは、実は危険なのではないか、と思うのです。

ここで、「マズローの欲求五段階説」というものを取り上げてきます。
(※マズローの欲求五段階説自体は、西洋学的価値に重きを置くいわばバイアスがかかっており、他文化へ移植可能な発想とは到底言えない、という批判。あるいは、実証的でない(ある種のはっきりした証拠を伴ってない)という批判もあり、もはや実用的でない、という人まであります。なので、この論を元に記事を構成するのは危険なのですが、これは面白い読み物を目指しているだけなので、あえてやります。ザコシの、「見慣れたモノマネを敢えてやる」ようなもんです)

内容自体は簡単なのと、経営者にとっては労働者への動機付けにふさわしいという理由から、ビジネス分野で多用されている話なので、ご存じの方は多いと思います。なので、説明はさらっと流します。

人間は、物質的・欠乏充足的欲求から次第に精神的・成長欲求へと欲求の内容が以下のように発展していく生き物だ、と唱えた論です。
下から、生理的欲求→安全欲求→所属と愛の欲求→承認欲求→自己実現欲求。と。

承認欲求は、昨今YouTubeでラッセルを引いてきて「承認欲求はクソ!」なんて過激な話を展開してたりしますね。まぁ何事も度が過ぎてはいかんということです。

この五段階に、実は「富への欲求」は全て重なるのですよ。いわば。全て「富で解決可能な」欲求たちなのです。

生理的欲求:食べたい。着たい。生きていきたい。
安全欲求:安全な住まいで暮らしたい。
所属と愛の欲求:恋人と仲睦まじく暮らしたい。
承認欲求:自分を認めてほしい。
自己実現欲求:社会で地位を確立したい。

富をお金、と捉えるならば、それはそれで全てお金に関わる欲求です。
富を資産、と捉えても、同じことです。

いずれ、この富への欲求を人間から奪うのは、この人間の五段階の欲求全てを阻害し、人間の成長をも間接的に阻害する、と言っても過言ではないわけです。
そもそも、富によって社会の地歩を築くという、欲求の最終工程を「資本家の豚が!」と完全否定してる様は滑稽を通り越して空恐ろしくなりますな。

さて。ここから少しずつ話の核心にせまります。
性利己説が人間の本来である、とするならば……。
えー、利己心というのはですね、己の心に介入しているだけの時ってのは、そんなに怖くないんですよ。
利己心から発した欲求が善性を伴えば、上記マズローの五段階欲求のように、最終的に自己実現という尊い人間を生み出すわけですし。
悪性に振れたらまぁ、やっかいですが、個人が散発的に悪性を発揮するってのは現代社会のどこでも見られる光景です。犯罪という名で語られますね。

問題は、利己心が他者の心に介入しようと試み始めた場合です。

人間が性利己であるならば、そこから発展する善性・悪性ってのは、その上に纏う衣に過ぎないんですよ。
そして、その衣は自分の纏う善性・悪性にそぐう行為を快楽として受け取ります。このへんも前回の稿で述べたとおりです。性利己の性質が善性と結びつけば善に快楽を、悪性と結びつけば悪に快楽を得る、というようなことです。

もし、ある個人の纏う善性が、他人の悪性に触れてそれを嫌悪し、嫌悪するだけならまだしも矯正しようと考えたらコレ、どうでしょう?
つまりこれもまた、社会主義的考え方なのですよ。
せんじつめると、社会主義ってのは、資本家の搾取分を搾取し返し、改めて労働者へと再分配しよう、という発想なのですから、そのまんまです。
他人の悪性への介入なのです。

で、この悪性への介入が最低である理由は、富の蓄積は実は悪性などではなく、単なる人間の本来欲求にすぎず、あくまでも「結果的に」「善意の者にとって悪性に映る可能性はある」ものの、「悪である」と断じられるいわれは決してないし、なかった、ということなんです。

それを、「悪」であり、「悪性」と断じ、人の富を勝手に搾取しようとした。
これ、どっかで既視感ないですか?
そう。
そもそもこれ、独裁主義者の考え方にそっくりなんですよ。

このへんで、社会主義者や社会主義にかぶれる人たちの特性が、なんとひとまとめにコンパクトに定義できそうです。

コミュニストってのはいわば、「人の善性悪性を勝手に断じ、勝手に矯正したい」という欲求を持つ集団である、ということなのです。……(1)

かりにマズローの欲求五段階説の最終段階、自己実現を図ろうとした場合。
それが善性に発揮されれば(利己心が善性を纏えば十分あり得ることです)健全な社会を築くための一助力をかってでて、企業あるいは団体という形で社会貢献を行う(もちろん、ある程度の利潤追求もした上で)、という形をとるでしょう。己の富を使って。
仮に悪性に発揮されれば、そりゃ詐欺とか。世界征服とか? 核爆弾作るとか気に入らない奴をぶっ潰す戦争するとか、いろいろあります。これは避けたいところです。が、富の追求が悪性に発揮される場合は、ほぼほぼこの前段階あたりで法に触れ、お縄になって諦めて試合終了、でしょう。

その欲求を可能にする人間的成長の運動の機会を全て悪と断じて奪い、国家によって統制管理する。それはもはや悪そのものじゃ。
もとは、不当に搾取された労働者に富を還元したい、という善性から発したはずの政治形態でしたが、突き詰めるとこれは巨悪、ということにどうもなりそうです。
それは結局、「人の善性悪性に対し勝手に介入して矯正をしたい」という欲望を、彼らが持っているから悪となるのです。

一言で言うと。
コミュニストは「独善的」なのです。

人間が不完全であることを認めようとしなかった、というのが、従来の社会主義に対する批判でしたが。
それ以上です。
「完全なる我々が、不完全なお前らを統制し、矯正してやる」
これが、社会主義者、やがての共産主義者の主張となります。
そして、完全なはずの国家が、彼らが統治するとまったく完全じゃなかった。

当たり前です。
(1)の心を持つ、社会主義者という、独裁主義者がトップについたからです。

ここからは繰り返しになりますが、利他という社会からの請求は、資本主義の場合は「ある程度(社会秩序を維持できるライン)」にとどめているのに対し。
社会主義・共産主義は、その全部を利他で埋めよとしているのです。
(まぁ、再分配として労働者と同額を支給するってんだから全部じゃないにせよ、生きがいを奪ってこれで我慢しろとカネを投げつける行為は独裁者のそれですわ)

あとは、非常に悪口です。
独裁者が、市民に対して平等であった、という例は寡聞にして存じておりません。
「比較的」日本において独裁者であった徳川家はまぁまぁ武家も質素であったし……などと言われますが、薩摩藩にたいして行った木曽川分流工事の苛烈な嫌がらせや、四民からこぼれた人たちを被差別民としたなど、平等、というにはほど遠いというのが本当でしょう。

そもそも、自分の善性を証明したいがためにその生殺与奪を握った独裁者が、自分が下に見ている市井の者に対して平等を発揮するわけはありませんやな。
たとえ出自が労働者でも、です。というか労働者じゃないしなたいてい。出自。

というわけで、最後ただの悪口でおわりました。
……よかったのかなこんなこと書いて。

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